ある一つの可能性の話をしようか




 「これはあくまでも仮定の話なんだが、聞いてくれたまえ」

 そう言って言葉を紡ぎだしたファニーは、広い部屋の中で足音を立てる事なく、して踊るように歩を進める。何に対してもなく、何処に向かってもなく吐かれる言葉と、進められる足が、部屋の一角に置かれた豪華なソファで足を組むジャイロに投げ掛けられる事はない。
 上空に放り出され、まるで雨のように浸透していく言葉の一粒ずつは、恐らくジャイロと共にいるファニー自身に対してのものだろう。

 「国家は、あらゆる事柄に関して常に努力せねばならない。国民に対して、国土に対して、そして国に対して、だ」

 ファニーのブーツが床を蹴るが、音は響かない。まるでサイレント映画のサウンド版を観ているようだ、とジャイロは若干上の空になりつつある思考で考えた。

 「努力を怠った国の体制は意図も簡単に崩れ、そしてアッと言う間に。良いか、アッと言う間に、だ。僅か一呼吸で国は亡くなる」

 ファニーの声は耳に優しい。低いが、地を響かすようなものではなく、それでいてテノール歌手のように通る。大統領演説のこの声なら聴衆が魅了されるだろう。
 出自の良さとしてはジャイロもそれなりであったが、やはり一国の大統領ともなれば格が違うのだろうか。時々耳にする詩編のような言い回しや、弦を爪弾く指先は同じ男のそれとは思えない。

 「ジャイロ、君の祖国ネアポリスは崩壊するだろう。そして体制崩壊の影響で、君が求める少年への恩赦は必要なくなる。つまり、だ。時を待てば君がこのスティール・ボール・ランに出場してる意味もなくなる、とは思わないかね」

 漸くジャイロに向き直ったファニーは、長い演説を終えたように一呼吸の間、目を閉じた。

 「……大統領、おたく俺にそれを言う為だけに、わざわざこんな所へ連れて来たのか?」

 故郷崩壊の予言はそれほど驚く事ではなかった。と、言うのも、死刑執行人の一家の出であるジャイロすら、制定された法に異を唱えるほど、既に秩序は体を為していなかったのだ。
 そんな時事よりも、今は何故、合衆国大統領ともあろう者がたかがレース参加者を得体の知れない空間に引き摺りこんだのか、それが疑問だった。



 ジョニィと遺体を集め始めてから遭遇した数々の刺客。それを現在進行形で送り込んでいる大統領こそが、ジャイロの眼前に立つファニー・ヴァレンタインその人だ。



 野営中に嫌なざわめきを感じたのにも関わらず、不覚を突かれてこの得体の知れない、まるで応接室のような空間へ引き摺り込まれたのが、つい十分程前の話だった。
 あれだけ刺客を送って命を狙っている筈なのに、混乱して警戒心を剥き出しにするジャイロに目もくれず、呑気にグラスワインを傾けたファニーが不遜な態度でジャイロにもワインを進めたのが、数分前。
 酔いとその場のノリに任せて、漸くジャイロがソファに腰を落ち着けたのが、いつだっただろうか。定かではない。
 視界が揺らぐ。緊張と酔いにやられたのだろうか。

 「……何故危険を承知してまでジョニィ・ジョースターを助ける、ジャイロ」

 そんな事、ジャイロ自身が最も知りたい事の一つだった。
 レース序盤で身捨てる事も出来た。足手纏い、いや、それ以上の損失も確かにあったが、何度も救われた事も事実。そして何より、離れられない何か磁力のようなものをジョニィに、ジョニィに接する自分自身に感じていた。
 それが何なのかは、解らない。知りたいと思うと同時に、知れないとも思っていた。
 自分の意図する処とは全く違う部分でジョニィから離れられない。

 「君が参加する理由はもうない、無い。このままネアポリスに帰国して、今まで通り暮らすも、ここに留まるのも良い。この状況からの妥協を選ぶ事で、君の選択肢は幾重にも広がる」

 その観念をジャイロは直感と確信し、人々は運命だと縋る。

 「ニョホ、ホ……おたくも大概酔狂な事だねえー?いや、違うな。おたくは酔狂ってだけでは動かない、だろ?大統領」

 今度はジャイロが立ち上がりファニーに向かって距離を詰めていく。一歩一歩、ブーツの踵を鳴らして距離を詰めるが、ファニーはただ真直ぐジャイロの焦点のグラつく視線を捉えて離さない。

 「おたくは、一参加者である俺をわざわざこんな場所に連れてきた。何かの能力か?いや今はそんな事はどうでも良い……。要点は一つ。一国の大統領たるおたくが、参加者に対する異例中の異例の接触。そして俺にリタイアを進めるとはなあ……さあ、何を企んでんだ?っつっても素直に言う訳ないか」

 手を伸ばせば触れてしまうほどの至近距離にいながら、相手に殺意がないのならジャイロも気を張る必要がない。独りごちるように視線を下げて、大袈裟な溜め息を吐こうと息を吸った瞬間、ファニーが口を開いた。

 「やはり、意志には逆らえんか……」

 小さく呟かれた言葉にジャイロが反応するより早く、ファニーが言葉を続ける。



 「ジャイロ・ツェペリ。君を殺したくないと言えば、私を笑うか」



 実に理解、し難い見解だ。

 「君は、何故レースに参加した」
 「それは……」
 「原因や要因を削いでしまえば、それは単に君がその意志を持ったからだ、ジャイロ」

 ファニーの声がジャイロの鼓膜の中で慌ただしく揺れ始めた。

 「そして私も意志を持った。君がレースに参加しようとこの国へ足を踏み入れたように、君を殺したくないと私がこうして異例な接触を試みたように、全ては複雑に絡まりつつも明確な人の意志でしか在り得ないのだよ。君がその意志を曲げないと言うのなら、私も__」

 そう言えば、ジョニィに何も言わずここに引き摺り込まれた、心配しているだろうか、ヴァルキリーは不安に思っていないだろうか、大統領の声が聞こえる、大統領が近付いてくる、存外、好い顔して__ああ、この感覚は__。






 「……ィロ……ジャイロ……」
 「んー……母上、あともう少し……」
 「ジャイロ!」
 「うわあっ!……って何だ、ジョニィか」
 「何だ、じゃないだろ!急にいなくなったからっ……」

 急に、というのはファニーにあの空間へ引き摺り込まれた事を言っているのだろうか。やけにリアルで、リアリティに欠ける夢だと寝惚け眼に思っていたが、ジョニィの様子と口内に僅かに残るワインの風味が、全て現実だったと主張する。
 何と酔狂な男なのだろう、ファニー・ヴァレンタイン。敢えて俺を泳がせるのか、それとも、そうせざるを得なかったのか。

 「あれ、ジャイロ……首の所、どうしたんだ?虻にでも刺されたのか?」

 首。そう言えば、意識が途切れる直前にファニーはジャイロに近付いて、そう、柔らかい感触と少々の痛覚が有った。そうか、あれは__。

 「ニョホホッ……酔狂な虻もいたもんだな……」



 数週間後、絡み合った意志が解かれる事など誰も予期してはいなかった。







2012-11-22