聞くには及ばぬリーズン




 世の中、何が起こっても珍しくはないと言うが、それでも事態が起こった時には息が詰まる。今まさにジョニィは息も出来ないほど疾走していた。勿論、馬には乗っていない。
 朝、何事も無く家を出て、いつものように授業を受けていたジョニィは、午後の授業を終えた後、これまたいつものように部活動に精を出す予定だったのだが、昼食を胃袋に収めた先程になって、知人の一人から送られて来たメールに急かされ、今現在全速力で疾走しているに至る。

 「……お願いだから……神様っ……」

 知らせを受けてから何度も、それこそ数え切れないほど神に祈った。誰でも良いから嘘だと言ってほしい。誰でも良いから、これは夢だと目を覚まさせてほしい。
 そう思いながらも、走り続けて血の味が滲む喉は、これが現実なのだ、と痛みを訴え続ける。どれだけ普段から鍛えているとはいえ、既に脇腹も痛み始め、いっそタクシーを呼んでしまいたいぐらいだったが、無駄足だろう。昼食の時間帯が過ぎた今、様々な交通網が交差する一帯でタクシーを呼ぶ馬鹿はいない。
 目的地の建物は街路樹から頭を見せ始めたが、未だ距離は充分にある。

 __ジャイロが爆発に巻き込まれた。大学病院にいる。

 普段は饒舌な知人が、これほどまでに簡潔な文章を送りつけてくる、という事の異常性がジョニィの焦燥感を煽った。返信を送る事も無ければ、追記が送られてくる事も無く、そしてそれがジョニィを更に追い込む。
 生きた心地も、息をする感覚も、もう感じてはいなかった。






 「ジョニィ……」

 息を切らして漸く辿り着いた病室の前にいた知人、マウンテンが深い溜め息を吐きつつジョニィを視界の隅に捉えた。

 「ティムさん……ジャイロは……?」

 隠す事も出来ずにジョニィの言葉が震える。声帯だけでなく、肩や、心も同時に震え、思わず涙が零れた。真っ白な空間の全てがジョニィから体温を奪い、上がっている筈の体温が急激に冷えていく。

 「……ジョニィ……温かい飲み物を、持って来てやってくれないか。……ジャイロの……頼みだ……」

 決定的だった。
 帽子を深く被り直したマウンテンが、片手で顔を覆い、それ以上動こうとしない。それが何を意味しているのか解らないほど幼くないジョニィは、声にならない喘ぎを漏らしながら幾筋もの涙を零した。

 彼が全てだった。
 彼が自分の人生を照らす唯一だったと言っても、過言ではなかった。
 ジャイロ・ツェペリ。
 彼を失った今、何故自分がおめおめと生きていられるのか、不思議で堪らない。
 呆気なく終わりを告げた日常が、ただ悲愴を背負うジョニィに降り注いでいた。
 悲しくて、哀しくて、彼を失ったのに息をしている自分が許せなくて、かなしくて、涙が止まらなかった。






 暫く経って、取り敢えず動けるまでに思考を持ち上げたジョニィは、ジャイロが気に入っていたカフェまで足を運んでいた。最愛の人の、最期の頼みだ。せめて一番のお気に入りだと言っていた物を届けてやりたい。
 もう少し距離があれば思いに耽る事が出来たのだが、生憎と、大学病院からカフェまでは近く、一時間も掛からないうちに病室の前まで戻ってきてしまった。

 足が動かない。この扉を開いて、二度と動かない彼を、ジャイロを、見たくない。
 そんな姿を見て、生きていられる自信もない。
 それでも、その場に立っているままという訳にもいかず、病室の扉を少しずつ開いた。



 「ジョニィ〜、いつものコーヒーあんがとさ〜ん」
 「は……?」

 思わず間抜けな声が漏れて、病室にいたマウンテンとウェカピポが噴出したが、見なかった事にしておく。問題はジャイロが__怪我をしているようで、顔面や至る所に包帯を巻いてはいるが__ピンピンしている事だ。訳が解らずに入口で固まっているジョニィに、マウンテンが苦笑した。

 「ジョニィ、安心しろ。記念すべき被害者一号は俺だ」
 「おいおい、俺に頭突き喰らわせておいて被害者はねぇだろ〜!」
 「アレは、いきなり起き上がったジャイロが悪い。俺は無実だ」

 目の前のやり取りに思考が追い付かない。ジャイロが爆発に巻き込まれて、病院に運ばれて、その連絡を受けて自分はここまで全速力で走って__。何でジャイロは元気で、自分はコーヒーを買ってきたのだろう……。
 混乱を極めて動きを止めたジョニィを見かねて、ウェカピポが助け船を出した。所々で溜め息を零しつつの説明だったが、流石は准教授といったところか、ウェカピポの説明にジョニィは漸く合点がいった。

 要約すれば、教室内で学生達が実験に失敗し、かなりの規模の爆発を起こして、偶々廊下にいたジャイロも巻き込まれた、という事らしい。細かい傷や脳震盪などが懸念されて病院に運ばれたが、ジャイロも学生達も目立った異常は見当たらず、学生達に至っては既に帰宅した、と。爆発のショックで光に過敏だから、今は目に包帯を当てて様子を見ているだけなのだ、と。
 当初は事件性も疑われていたので、警官でもある知人のマウンテンに連絡したところ、マウンテンが珍しく慌てふためきながらジョニィに連絡してしまったおかげで、現状に至るらしい。全く傍迷惑な話である。

 「言っておくが、お前達をからかおうと言ったのはジャイロ本人だ。文句があるならジャイロに言ってくれ。俺は報告があるので大学に戻る」
 「ウェカピポ、ファニーにお見舞いはいつものアップルタルトって言っといて」

 呑気な声に見送られながら大学に戻るウェカピポに伴い、マウンテンも報告の為にと病室を出ていった。
 病室に残されたのはジョニィとジャイロの二人。



 白いベッドに腰掛けて深い溜め息をついたジョニィの様子を拗ねた、と判断したジャイロが薄く笑う。それを耳にしながらジョニィは手に持ったコーヒーに視線を落とす。防水カップに入っているコーヒーはまだ熱を持っており、いくら寒いとはいえ、悴んだ指先には熱過ぎる。
 コーヒーをサイドテーブルにおいてジャイロを振り返ると、所々に見える包帯、特に目元のものが痛々しいものの、口元は常のように悪戯っぽく笑っている。

 「ジョニィ、何だよ。ニョホホ、からかわれて拗ねたのか〜?」

 拗ねる、というよりは怒りに近いものがあった。言葉にはされていないが、暗に死を連想させられて、この数時間は生きた心地がしなかったのだ。
 一応は怪我人のジャイロの事を考えて、怒鳴って喚き散らすような事はしないが、それでも沸々とくるものはある。可愛い悪戯、で済ませてしまえば良いのに、済ませられるほど自分の器が大きくない事も、自分がまだまだ子供である事も自覚しているジョニィは、下らない冗談に心底傷付き、怪我をしてはいるものの無事だった事が嬉しくて、口を開けば泣いてしまいそうだった。
 少し落ち着こうと、ジャイロが横たわるベッドから離れて、用意されている椅子に座ろうと足を動かし、そこで漸く異常に気付いた。

 「あっ……」

 サイドテーブルに置いていたコーヒーをジャイロが零したのだ。満々に入っていたそれは真っ逆さまに落ちたので、病室の床に広がる。それだけだったら、やってしまった、ですんでいた。
 しかし、ジャイロの反応が常とは異なっていたのだ。所在無さ気にうろたえる両手は、何かをしようというよりも、辺りを確認するように伸ばされ、先程までジョニィが腰掛けていた位置に触れて、それ以上は動かず、ジャイロは包帯の中から視線を宙に彷徨わせる。



 「ジョニィ……?」



 絞り出された声は、今まで聞いたどれよりも心細く響いた。
 その異常が何を意味するのか、専門的な知識が無いジョニィには解らない。

 「……ジョニィ……」

 泣きそうだ、と思った次の瞬間には、ジャイロの喉から嗚咽が漏れた。

 「ジョニィ、ジョニィ……ジョニィ……どこ……?」

 目元に当てられた包帯が見る見るうちに濡れていく。
 幼子のように手元にある布団を握り締めて、ただひたすら声だけでジョニィを探すジャイロの様子に、ジョニィはやっとその異常が何なのかが理解出来た。爆発で光に過敏だから、というのは嘘だ。少なくとも、それを語ったウェカピポが嘘を吐くとは思えなかったので、ジャイロが言うに言い出せなくて吐いた嘘なのだろう事は想像に容易い。

 「……ジョニィ……ジョ、に……ごめ、謝るからっ……」

 可哀想なほどに濡れた声に、漸く思考をまとめきったジョニィが動いた。
 ジャイロ、と呼び掛けた声に、抱き締めてくる身体に、声に成らない叫びを上げながらジャイロが縋り付く。離すまいと込められた力は、それでいて弱々しく、漏らす声はひたすらに謝り続けた。

 「っ、じょ、ニィ……ごめん、ごめっ、ん……」
 「ジャイロ……ジャイロ、もう大丈夫だから。家に帰ろう」

 ジャイロの目に、ジョニィの姿は映らない。
 白い病室も、床を汚すコーヒーも、ジョニィも、何もかも。
 それでも病室に充満する匂いは甘苦く揺らいでいたし、自身の情けない声も、ジョニィの宥める声も、ジャイロの耳は余す事無く捉える。

 今朝見送った人は、こんなに小さかっただろうか。と、ジョニィは思う。
 今朝寝顔を見ていた人は、こんなに大きかっただろうか。と、ジャイロは思う。

 一感を失っただけで、どうしてこんなにも立っていけないのだろう。
 一感を失っただけで、どうしてこんなにも一人が辛いのだろう。
 それでも、その暗闇の孤独を数時間耐えたジャイロに漸く刺した光は温かかった。温かいからこそ、今だけは、と自分を抱き締める身体に身を委ねた。







2013-01-15