マイスペースの構築




 物事には必ず限界というものがある。
 それは昔からよくある事で、誰もが抵抗し、そして敗れていったものだ。
 何度経験しても慣れる事のないそれは、気付かれないように少しずつ心を蝕んでいく。徐々に侵食されていく心は、傷口を埋める事も出来ないまま、また新たな限界に打ち拉がれる事しか出来ない。進歩とは常にその境地で産まれ、そして多くの人々はそれに多大なる犠牲を払い、感謝した。犠牲とは道であり、一部であり、そして生命でもある。
 熟知した限界。熟知していると自負している限界。それでも、その壁を越えようと何度も試み、そして今日も敗れてしまった。ジャイロの日常には当たり前のように、その犠牲の繰り返しが刻み込まれている。



 「ジャイロ」

 突如として通った低い声が、まるで戒めるようにジャイロの鼓膜を振動させる。誰のものか、そんな事は意識を傾けるでもなく解りきったものだ。

 「ジャイロ、諦めるんだ」

 制止を促す声は確固としているが、強制力は持たない。父、グレゴリオは決してジャイロの言動を無理矢理に止める事はしなかった。それは昔から変わらないもので、今もなお続けられている接し方であり、グレゴリオはいつだって全てが終わり掛け始めてから冷静に、そして的確にジャイロの言動を言及する。

 「ジャイロ、もう終わった」
 「父上、彼の鼓動はまだ動いています」
 「それはお前が施している心臓マッサージによるものだ。自発的な動きではない」

 グレゴリオの言う事は正しかった。術中に止まってしまった患者の心臓は、何度電気ショックを与えても、今もジャイロの手によって現在進行形で行われている心臓マッサージにも反応を返す事はない。麻酔の不備も無く、順調に腫瘍を取り出し、目立った出血も見当たらない至って普通の外科手術だったのだ、そう、途中までは。
 予測不能の大量出血と、それに重なった不整脈。幾重に処置を施しても一向に収まる気配を見せず、今やジャイロの心臓マッサージによる衝撃がモニターに反映されるのみ。

 「ジャイロ」

 患者の心臓部に当てられたジャイロの両手に、グレゴリオの手が重なる。
 自分でも止められる事の出来ない衝動が胸中で渦巻くのが解るが、それでもジャイロの腕は緩やかに力を失い、垂れた。

 「変えられないものには逆らえない。我々は人であって神ではないのだ、ジャイロ。お前も私の息子なら解るだろう」

 解って堪るか、と胸中で吐き出して、それでもジャイロは手術室を去るグレゴリオの背を見送る事しか出来なかった。自分は余りにも未熟で、未熟だからこそ感傷に揺さぶられる。
 一刻一秒と人命は鼓動を散らし、己の感傷に揺さぶられた一挙一動が生命を失いかねない危険性を孕んでいる事は十二分に理解しているジャイロだったが、同時に精神的な未熟を拭いきれない自身に苛立ちを感じていた。
 共に過ごし、笑い合った患者達が、時に自分の手によって救われ、自分の手によって命を失う。ジャイロにとっては、そんな日常が当たり前で、当たり前だからこそ逃げ出したくもあった。
 手術室の外から聞こえる患者の家族、遺族の悲痛な叫びがジャイロの陰りを増長させる。締め切られた手術室の中を反響する叫びは、大量の機械に繋がれた遺体に注がれているというのに、もう二度と彼は、あの個体は動かない。
 何度も見てきた瞬間。一人が、一体になる瞬間は斯くの如く神聖で、斯くの如く味気無く、日常的なものなのだ。少なくとも、ジャイロにとっては。

 手術着を脱ぎ捨てながら、次の手術まで少し時間が空いていて良かった、と溜め息を吐いた。今の状態で、冷静な判断を下せる余裕はどこにも持ち合わせていない。






 「あれ、今は休憩時間……って、ジャイロ?」

 すぐに自室に戻っても良かったが、カルテに溢れた部屋ではリラックスする事が出来ないので却下。その代わりに迷わず足を向けた先は、院内の心療内科の一室だった。

 「コーヒー」

 ぶっきらぼうにそれだけを言って、ジャイロは備え付けられたソファに腰を下ろし、頭を抱え込む。そんな姿を見て部屋の主、ジョニィは僅かに苦笑を漏らした。
 心療内科の一室は病院の定番ともいえる無機質な内装と異なり、患者がリラックス出来るように心掛けられている。暖色系の色に囲まれたこの空間は、従業するジョニィが白衣を着ていなければ、プライベートな場所と見紛う程だ。

 「紅茶にしようよ。美味しいクッキーもあるしさ」

 ジャイロの心中を察して気を紛らわそうと話題を振るジョニィだったが、ジャイロは頭を抱え込んだままだ。どうしたものかと少し思案していると、ややあってジャイロが重々しく口を開いた。



 「死んだ」



 一言。しかしそれだけでジョニィには充分伝わった。
 手術中に患者が亡くなる例は世間的に見れば少ないが、院内ともなれば日常茶飯事。インターン中の学生などは、その現状に耐えきれず涙を流す者も多いが、勤めて数年のジャイロは未だに患者の死亡、というものに慣れないでいる。慣れる、というのもおかしな話だが、医療に携わる者としては慣れなければこなせない仕事もあるのだ。

 「手術は、順調だった。腫瘍の摘出は速やかで、ヒヤリハットもなかった。麻酔にも異常なし。なのに、いきなり出血と、不整脈が……俺が、俺が……殺しちまった……」

 ジャイロのズボンに丸い染みが浮かび上がる。絞り出すように呟かれた言葉は酷く濡れていて、柔くジョニィの心を締め付けた。

 「これまで、俺は、沢山の人々を殺した……父上は、然るべき犠牲だと、仰った……でも、俺が殺しちまった事に代わりねえだろっ……!」

 机に叩きつけられた拳が鈍い音を立ててジャイロに痛覚を与えたが、それすらも気を紛らわせる手段にはならず、ジャイロは薄い涙の筋を頬に這わせ続ける。そのまま、俺には無理だ、と零れた言葉が部屋に響いた。
 一人の医者として、名医の息子としてジャイロに課せられたものは余りに重く、しかしそれに抗う思考と術を持たないジャイロは与えられた結果と言葉を、文字通りに鵜呑みにする事しか出来ない。その姿がジョニィには懐かしく映る。まるで、昔の自分を見ているようだった。

 「解るよ、ジャイロ」

 静かに告げられた言葉は、至極無意識にジャイロの逆鱗に触れた。

 「何が……テメェに何が解るっつうんだ!!」
 「解るよ、ジャイロ」
 「黙れよ!部屋に籠もって他人の愚痴に付き合ってるだけの奴が、偉そうに俺に同情するんじゃねぇ!!」

 ジョニィの胸倉を掴み、今にも手を上げそうな剣幕のジャイロの瞳には、既に目の前にいる筈のジョニィすら映ってはいなかった。悲痛な目。ジョニィにとっては親しみのある、心療内科の患者達がよく携えている目だった。
 荒々しく呼吸しながらも、ジャイロの罵声は留まらない。院内で何かある度にジョニィの元へ訪れるジャイロだったが、これ程までに取り乱した姿を見るのは始めてであった。そして、取り乱さなければ発散する事も出来ない状態にジャイロが陥っているのだと思うと、ジョニィは表情を曇らせた。

 「ジャイロ、僕は……」
 「うるせぇ!!」
 「ジャイロ」

 元来感情的なジャイロの事を考えると、一度激昂すると中々収まらないだろう。どうしたものかと思いつつ、ジョニィは心中で苦笑を漏らしてジャイロの激昂に対面する。二の句を継がせはしないと言うように遮断するジャイロは頑なだったが、努めて穏やかにジョニィが名前を呼ぶと一瞬だけ瞳が揺れた。

 「僕は兄さんを殺した」

 殺した、という言葉に漸く動きを止めたジャイロに、ジョニィは言葉を続ける。あの時の事を、まるで昨日の事のように思い出せる、とジョニィは嘲笑を浮かべた。



 「僕のインターンが始まったばかりの頃の、手術の見学、かな。偶々運ばれて来た急患が兄さんだったんだ。交通事故、だった。腹部の損傷だったし、骨折もしていたから、当然すぐさま手術に移ったんだ」

 淡々とした口調だったが、それでもジャイロは耳を傾けているらしく、その目にはちゃんとジョニィが映っている。ジャイロの様子を窺いつつ、ジョニィは当時の記憶を一つ一つ紐解いていった。

 「よくあるミスで、あるまじきミスだったよ。僕の後ろにいたインターン生が手術を詳しく見る為、かな……身を乗り出して、僕にぶつかったんだ。……僕はアシストの為にメスを持っていて……目の前には兄さんの開かれた胸郭と、脈打つ心臓があった」

 ぶつかっただけならヒヤリハットで終わっただろう出来事は、余りにも悲惨な最期を迎えた。ジョニィの脳裏には、未だに血飛沫を上げる心臓の映像がこびりついて剥がれない。
 何度後悔して、何度懺悔しただろうか。それでもジョニィに重く圧し掛かった罪悪感や、悲愴、そして自身に対する憎悪の念は膨らむばかりで、そしてジョニィは手術室から遠ざかる道を選んだ。



 「あの手術室での事、僕には耐えられなかった。その日の朝まで会話してた兄さんを、僕が殺したんだから。……僕はね、ジャイロ。逃げたんだ。誰かの命に関わる事から……僕には無理だったんだ」

 だから、君の気持ちが少しなら解る、と言ってジョニィは部屋の奥に向かった。

 残されたジャイロは力なくソファに座り込み、漸く常時の冷静さを取り戻した思考を働かせる。しかし、つい先程の手術の事より、思考回路はジョニィの話に傾いていた。
 ジョニィの兄は死んだが、それはジョニィの所為だと断言できるものではない筈だ。心臓にメスが刺さったのなら縫合すれば良いし、インターンを始めたばかりの学生にメス等を持たせるとは言語道断。それに、手術中は最新の注意を払わなければならないというのに、ぶつかる、とは何事か。
 そこまで思考をまとめて、ジャイロは紅茶を片手に戻ってきたジョニィに口を開いた。



 「ジョニィ、お前……何もかもを自分の所為だって言うのか……?」



 その言葉を聞いて、漸くジョニィの顔が綻ぶ。

 「おい、何笑ってんだよ!俺は……!」
 「ふふっ、ごめんごめん。何だか可笑しくて……。でもジャイロ、その台詞こそ、僕が君に一番言いたかった事だよ」

 用意された紅茶を受け取り、ジャイロは頭に疑問符を浮かべた。

 「ジャイロ、患者達は僕達に救いを求めてくるよ。でも、病に対してまで僕達に責任があるのかい?そんな馬鹿な話はないだろう?」

 ジャイロの向かい側に腰を下ろして、ジョニィは言葉を続ける。

 「手術中に患者が亡くなる事は仕方がない。僕達は人間だから、完璧を求めても時として失敗する。だからといって、それが誰か一人の責任として押し付けられる事は間違ってるんじゃないかな」

 鼻腔に充満する濃いストレートティーと、頑なだった認識を解きほぐすようなジョニィの言葉が、徐々にジャイロの心に沁み渡っていく。優しく、温かい。
 先程まで胸中を占めていた罪悪感が、下手をすれば全て無くなってしまうのではないか、と錯覚してしまう。

 「僕は逃げたよ。でも、君は何度だって誰かを救おうと必死になる。必死になるからこそ苦しむんだよ。ジャイロ、君はその苦しみを恥じる事なんてないんだ」

 だから泣いてしまっても構わない、と頬にある涙の筋をジョニィの指で拭われ、ジャイロは言い様のない安堵に包まれた。手放し難く、手放せない。頬にある温かな体温は、随分昔から求めていた平穏そのものかもしれないとすら思った。

 「ジョニィ、俺__」
 「それにしても術中に突然の大量出血と不整脈なんて、ね。腫瘍ってぐらいだから心臓病とかじゃないんだろう?珍しいね……まるで術前処置を無視してるみたいだ」

 術前処置、と聞いて嫌な予感がした。あるまじきミス、というやつだ。それも患者側の。手術前は断食が当たり前なのだが、特に飲酒喫煙は術中の大量出血と不整脈を引き起こす為、絶対厳禁だというのに、まさか。
 思い立ったらこうしてはいられない、と解剖医の元へ向かう為にジャイロは残りの紅茶を一気に飲み干して、慌ただしくソファから立ち上がった。

 「患者が馬鹿だった、に晩御飯を賭けるよ」
 「おい!不謹慎だろ!」

 呑気に紅茶を啜りながらジョニィは笑う。

 「元気出たみたいで良かった。じゃあ、今日は君の奢りね」

 患者の死因を賭けの対象にするなど有り得ないし、まだ解剖結果すら出ていないというのに自信満々なジョニィを部屋に残して、ジャイロは無機質な院内に戻って行く。
 それでも、足取りは軽かった。







2012-12-23