リップに貪るリップ




 一年に一度。決まった日の、決まった時間。

 「Et secundum multitudinem miserationum tuarum dele iniquitatem meam」

 ジャイロの部屋から、低く通る声と掠れたファルセットが聞こえる。

 「Amplius lava me ab iniquitate mea et a peccato meo munda me」

 ひたすら、ただひたすらに、同じフレーズを繰り返し歌う声に気付いたのは、実に数年前の事だった。日付が変わる頃、いつもならまだ起きている筈なのに、一人で部屋に戻ったジャイロを違和感を覚えて、こっそりと部屋のドアに耳を付けて漸く聞こえた声、歌声。

 「Et secundum multitudinem miserationum tuarum dele iniquitatem meam」

 祈るように紡がれる歌に、何も聞けずに、何も言えずに、僕はジャイロの部屋の前に座り込む。

 「Amplius lava me ab iniquitate mea et a peccato meo munda me」

 僕に出来る事は何一つない。
 今日という日は、それを思い知らされる日だ。
 僕はジャイロの事を何も理解していない。

 「Cor mundum crea in me, Deus, et spiritum rectum innova in visceribus meis」

 考えが少し沈みかけたところで、何年も聞き続けていたフレーズが変わった。変わったのはそれだけではなく、部屋の中で何かが動く気配を感じた。
 普段から生き物を相手にしていると、僅かな空気の振動で呼吸や動きが解る。恐らく、何かに腰を下ろしていたジャイロが立ち上がって、ドアの方に向かって歩いているのだけど、僕には盗み聞きの言い訳なんか思い付かない。
 どうしよう。

 そうこう考えているうちに、ジャイロが部屋のドアを開いた。

 「あ、えと……Hi」
 「Hi, Johnny. ワインと、それからチーズ。持って来いよ」

 僕の盗み聞きなんて、ジャイロにはお見通しだったらしい。気まずさにぎこちない反応をした僕だったけど、ジャイロに促されるままキッチンに向かうことにした。






 「ご、ごめん……盗み聞きするつもりはなかったんだけど、気になって、その__」
 「謝る事なんかねえよ。逆に、感謝してるぐらいだ……煩かったろ」

 ジャイロがワインを片手に微笑む。いつもの事なのに、違和感が拭えない。
 確かに普段はリビング以外で飲食をしないから、というのもあるだろうけど、この光景に違和感を覚えている訳じではない。他の誰でもないジャイロから、違和感が漂ってきている。
 それを払拭しようとして言葉を続けようとしたが、出鼻を挫かれて中々単語が思い付かない。どれもこれも、喉まで出ているのに、舌が選り好みする所為で音にはならずに、唾と一緒に飲み込んでしまう。

 「……お前さんと一緒に暮らして、何年だっけか。……ずっと、知ってただろ、この事」

 この事、が何なのかなんて、考えるまでもない。
 ジャイロも、僕が知っている前提で話を進めるつもりのようだ。

 「うん……でも、話したくないなら僕は__」
 「話したい。……聞いてほしい。嫌か?」

 嫌か、と聞かれて僕が断った例はないのに、ジャイロは恐る恐るといった具合に僕の瞳を覗き込む。声だけは妙にしおらしいのに、僕を瞳を捕らえて話さない海松色は深く、それでいて頑なだ。僕が断ったところで、それは何の意味も持たない事が解る。

 「……聞きたい。ジャイロ、聞かせてくれよ」

 僕の返答を聞いて漸くジャイロの頬が緩み、少しばかり雰囲気が和む。しかし、僕がグラスに口を付け、もう一度ジャイロを視界に捉えると、見た事も無いほど悲痛に歪められた視線をグラスに注いでいた。

 その姿はまるで、ジャイロに出会う前の僕のようだ、と。その表現が一番適切だと思う。






 何度か口を開閉させ、言葉を選ぶ風を見せたジャイロが意を決したように言葉を吐き出したのは、僕の手が室温に侵されて冷え切った頃だった。

 「十年前の今日、ある男が命を落とした」

 十年前といえば、ジャイロはアメリカで言うところの九年生。僕に至っては五年生だ。

 「直前に男は息子と話しててよ……」
 「……最期の、会話だったんだね」

 普段のジャイロからは想像出来ないほど沈み込んだ面持ちだから、その思い入れの深さが知れる。もしかしたら、このエピソードが医学を志す切欠だったのかもしれないと、話をそっちのけで僕の思考は一人歩きをし始めた。

 ジャイロは一言で簡潔に言うなら、優秀、の一言に尽きる。
 単身渡米して留学した先の医大を飛び級で卒業したし、医学以外の知識も豊富。それに加えて人当たりも良い所為で、近所ではちょっとした有名人だ。僕にとっては不愉快な話ではあるけれど、好意を持っている異性も少なくない。一緒にいるだけで自然と笑顔になれる、そんなジャイロを放っておく人がいるなら見てみたいぐらいだ。
 そんなジャイロが唯一弱みを曝け出す存在になれた僕は、なんと幸運なのだろう。

 「男は息子に疲れた、と言った」

 唐突に嬉しさが込み上げてきて、今すぐジャイロにハグしたい気分だけど、今はジャイロが話している。こんなに真剣に話してくれているのに、中断するのは失礼というものだ。
 僕は昂った想いを誤魔化すようにグラスに口を付け、口内を潤し、言葉の先を促すようにジャイロを見つめる。



 「……もう、良い。大丈夫だ、と……俺は答えたんだ……」



 言葉の意味が解らずに、僕の動きが止まった。

 「強い男だった。決して後ろは振り向かず、ただ目の前に横たわる患者を如何に救うか、それだけを考える男だった。弱音を、吐けない男だった。……そんな男が、疲れたって、言ったんだ……なのに、頑張れなんて、言えるかよ……」

 ジャイロの右目から、涙が一筋垂れる。
 悲痛よりも、諦めの方が濃い。そして、納得が出来ない。そんな声だった。

 「十年前の、今日……俺が見たのは、遺体だ。……壮年の……男性、中肉中背。モルヒネの大量摂取による呼吸困難で……死亡。発見されたのは、朝だった。……寒かっただろうな……」

 そう言ってジャイロはワインを煽る。空いたグラスにワインを注ぎ、今度はデスクの上へ。そして、懐かしむような、慈しむような瞳でグラスを見つめて、もう一度、涙を零す。

 僕は鈍器で頭を殴られたような感覚に襲われた。
 これは、今までジャイロの事を知ろうとしなかった僕への罰かもしれない。勿論、無理強いしてまで聞き出す事は不要だろうが、もう少し、もう少しだけ。もっと。

 駄目だ、言葉に出来ない。

 「ニョ、ホ……なんでお前さんが泣いてんだよ、ジョニィ」

 ジャイロが僕の肩を引き寄せて、頬を拭う。それが堪らなく嬉しく、酷く哀しい。
 本当なら、ジャイロの肩を抱いて、その瞳から溢れる涙を救って、吐露に対する感謝を述べるのが常套手段だというのに、僕の心は激痛を訴えて嗚咽を漏らし続ける。
 僕が体験した悲しみではない。それでも、ジャイロがその悲痛を一身に受け止めざるを得なかったという事実が悲しくて、もどかしい。ジャイロが過去を想って流す涙の一粒一粒が、僕を悲しみの断崖へ追いやる。

 「だって、知らなかった、んだ、ジャイロ……。ジャイロ、僕、知らなかった……」
 「当たり前だろーが。こっち来てから誰にも話した事ねーもん」

 じゃあ、何で__。
 僕が言わんとした事に気付いたのか、それとも僕の顔が解り易かったのか、ジャイロは頬に涙を伝わせたまま、僕の顔に口付けを落とす。



 「お前に、知ってほしかった」

 「悲観的になってる訳じゃあねーんだけど、な」

 「俺の贖罪を、お前にだけは知ってほしかったんだ」



 言いながらジャイロは僕の顔に何度も、何度も口付けを降らせた。何か言いたいのに、ジャイロの唇の熱が心地良くて、強請るようにジャイロの腰に腕を回してしまう。

 「ジャイロ」
 「何だよ。また神様はいねーとか言うのか?」
 「君の話を聞いた後で、そんなの言えないよ」

 安堵、だろうか。今度こそジャイロの顔が綻んだ。たったそれだけの事なのに、嬉しくて、愛しくて、切なくて、涙が止まらない。
 ジャイロは僕の事を泣き虫だと言うけれど、僕が泣くのはジャイロの所為だ。ジャイロといて、ジャイロの事を考えるだけで、こんなにも心が揺さ振られる。感情が僕の内側を喰らい尽くして、剥き身のままの僕が、もっと、とジャイロを求めるんだ。
 その感情のまま、今度こそジャイロの胸に顔を埋める。



 「この温かさが神様だって言うなら、僕は神様を信じるよ」

 そしてこの温かさが、ジャイロにも伝われば良いんだ。



 深き御憐れみを以って、背きの罪を拭い給え。
 我らの咎を悉く洗い、罪より清め給え。
 神よ、我らの内に清い心を創造し、新たに確かなる聖霊を授け給え。







2013-03-11