信条と名付けられた揺るぎない盲点




 白昼夢というよりはデジャヴに近い。フラッシュバックのように鮮烈に、それでいて走馬灯のように淡く、なのに心中を掻き乱して已まない感情の名前を、俺は知っている。
 人はそれを、狂気という。
 そしてある人は、感傷といった。

 「お前には分からない」

 俺は嘯く。

 「お前には、理解出来ない」

 俺は嘆く。

 「そして、俺も知らない」

 昔から何一つ変わらないまま、まだ荒野を彷徨っている俺には、地図などない。
 俺はただ、何も知らず眠るジョニィの額に唇を押し付け、懺悔するように告白して、そして朝を迎え続ける。この過酷な旅の中、この時間が唯一好きだ。心安らぐこの時に、恋をしているといっても過言ではないだろう。






 「神様のシャワーって、知ってる?」

 就寝間近になって口を開いたのはジョニィだった。

 「……天使の分け前、的な?」
 「それは知らないけど……君が想像しているものより、ずっと綺麗なものだよ」

 俺の方を見つめるジョニィは、俺を見ているのに、見ていない。認識論を展開するつもりはないが、簡単に言えば、俺を風景の中の物体として見ていた。そんな目だ。焦点は合っているのに違和感を覚えるのは、その蒼穹の緑柱を思わせる瞳が虚空を見ているからだろう。
 お前を見ている訳ではない、と言外に吐かれた気がして、眉間に皺が寄るのを感じる。

 「ジャイロ」
 「……何だよ」
 「昔話を思い出していただけ……だから__」

 __機嫌直してよ__。

 そう言って俺の頬を撫でてくるジョニィの気が知れない。しかし、そんな事ぐらいで降下していた機嫌を浮上させる俺も、人の事は言えないだろう。
 存外に子供染みている俺を、こいつは知っている。
 存外に大人振りたがるこいつを、俺は知っている。
 何ともアンバランスだが、それが良い。お互いに律する事を徹底する性質でない事が、この状態に拍車を掛けるが、別段後ろめたい気持ちもなかった。少なくとも、俺には。

 「別に怒ってねーし。それより神様のシャワーっての、聞かせろよ」
 「ふふ、仕方ないなあ……」

 そして徐に曇らせた瞳を、今度は上天に向け、ジョニィは語った。



 「君の国に、神様のシャワーは降らないみたいだな」



 無法者が猛威を振るう界隈で、時として法は無力だ、とジョニィは笑う。犯罪は日常的に起こり、そしてそれに身を投じる事でしか生き残れない人生というものも存在するのだ、と。

 「そういう事が嫌になって、死ぬ奴だっている」
 「行いを悔い改めて、やり直せば良い。だろ?」
 「君も知ってる筈だろ。人は、そういう事を忘れない」

 例え自分が有名人ではなかったとしても、人々は愚かな言動をその記憶に留め、自分を蔑み続けてきただろう。罪を犯した訳ではない。ただ、驕り高ぶっていただけ。罪の経歴が無くとも、その腕に罪人の刻印が無くとも、人の目は時に生きる事すら困難に陥らせる。
 目を細めて、薄い蜂蜜色を手持ち無沙汰に指に絡め、ジョニィは溜息を吐いた。その手を緩く引き寄せてやれば、俺の喉仏にリップ音が押し付けられる。首元を擽る金糸に、思わず苦笑が漏れた。

 「君の国に差別はないのか?だとしたら、そこが神の国かもしれないな」
 「馬鹿にすんなよ。差別ぐらい……ある。残念な事にな」

 王に仕えながら、常に下賤と蔑まれてきた者達と最も近しい場所にいた俺にとって、差別は身近なものだ。勿論、刑期を終えた彼等が世間でどんな目に晒されるかは想像に容易い。



 「目隠し、するだろ?」

 そう言って、ジョニィは俺の目に両手を当てた。

 「刑場に立たされて……緊張と恐怖で、自分の鼓動だけしか聞こえない」

 「そして、突然……焼けるような痛みと、意識が浮くような感覚に襲われる」

 「僕達を唯一救ってくれる……神様のシャワーだ」



 徐に解放された視界が薪の光に痛む。網膜が焼き付いて目を開けていられない。

 「救いを求めて罪を犯す……日常的な事だよ。独房に差し込む光と、終着点を与えてくれる弾丸こそが、僕達の断罪の為に手を差し伸べる天の救いなんだ」

 光に眉間を顰めつつ、薄く目を開けると、ジョニィの視線が俺を捕らえた。
 俺の瞳の奥を見透かすようでいて、深淵を覗き込むように深い。蒼穹、群青、蒼海、青天、そのどれも当て嵌まらず、強いて言うならそれは光の届かない深海のようだ。しかし、濁ってはいない。ただひたすらに俺の奥底を求める視線。虜囚のように囚われて、逃げられない。
 ジョニィの瞳に映る俺が、俺を見つめる。

 「君達は、銃殺刑を神の鉄槌と呼ぶ。僕達は、銃殺刑を神様のシャワーと呼ぶ。そこにある明確な違いこそが、君達が感傷と名付けた人間の本質なんだよ、ジャイロ」
 「……何、俺の事、責めてんのか」
 「君がそう言うなら、そうかもしれないな」
 「俺の質問に答えろよ」
 「……僕は、専門家じゃあないから」

 そうだな、と微笑んで、ジョニィは言葉を続けた。

 「ジャイロ……君は時々、必要以上に理性的であろうとするよな。レース中じゃあない……この命の駆け引きをしている時に」

 ジョニィの左手が俺の心臓の上に置かれる。指先で確かめるように胸郭をなぞられ、親指に鳩尾を押し込まれ、反射的に喉が息を呑んだ。

 「感傷に捕らわれるな。……君の独り言、なのかな。聞く度に、酷く滑稽だと思ってる」
 「滑稽、だと……?」
 「ああ、感傷から法が生まれたっていうのに、法に順ずる君達が感傷を否定するなんて、ね」

 幼い頃より感傷を持つな、と躾けられて早二十数年が経つ。そんな俺にとって感傷とは最も避けるべきものであって、最も忌むべきものであるのに、この少年は感傷こそが法の根源だと言う。思わず、何を馬鹿な、と叫びそうになるが、俺が叫ぶより早くジョニィが言葉を続ける。

 「もし僕が殺されたら、君はどうする」
 「っ……それは……」
 「鉄球を以って、或いはその拳で、相手を殺すかもしれない。……それとも、僕なんかの為にそんな事はしないかな?」

 試すように聞いていたなら話半分に笑えるが、今のジョニィはそんな目をしていなかった。例えるなら、漆黒の意思。
 その瞳が雄弁に語る。お前はこの少年を棄てるだろう、と。断定的なその口調は聴覚を震わせる事はしない。ただその台詞は、俺の脳内で父上の声に変換される。気に喰わない。

 「……それ本気で言ってんなら容赦しねーぞ」
 「君が感傷に捕らわれないなら、それが事実になる」
 「……」
 「個人が個人の裁量で恨みを晴らす。それが罷り通れば、人は常に恐れ戦きながら生きなければならない。だからこそ、その感傷を肩代わり、行使する人物として君達が、法の番人がいる。……僕の言ってる事、変?」



 時々、ジョニィには驚かされる。
 塗り固められた俺の固定概念を、根底から覆す発想、発言は聞いていて新鮮だし、新しく用意された視点は客観的且つ一般的で、受け入れ易い。これも、立場の違い、ひいては身分の違いだと思うと頭が痛む。恩師には物事を多角的に捉えろと再三教わったものだが、恩師が亡くなって以来十数年で俺の思考は大分凝り固まっていたらしい。

 「夜明けに、いつも僕の額にキスするのは君だぜ、ジャイロ。それこそ感傷だろ?」

 ジョニィの言葉に、俺の動きが止まる。
 こいつは今、何と言った。
 夜明けの事、まさか、こいつ__。

 「……起きてたのかよ」
 「僕には分からない?理解出来ない?心外なんだけど。まあ、君が知らないってのは解る。君はクリスチャンだしな」
 「話を逸らすな」
 「話を逸らしてるのは君の方だろ?素直になれよ、ジャイロ・ツェペリ」

 君は、君の最も遠ざけてきた感傷を僕に抱いているんだ。

 「人間として、適当だよ。君の親父さんは感傷を持つな、って言うんだろ?その言動自体、既に感傷じゃあないか」

 近付いてきたジョニィの唇が、俺のそれを掠め取る。薄く口を開いて先を促すが、ジョニィはそれ以上動こうとしない。

 「ジョニィ」
 「素直になれって、僕は言ったんだけどなあ……」
 「……解ったよ」

 意地の悪そうなジョニィの表情に促されるまま、俺は口を開いた。
 お前には分からない__それが何であるか。
 お前には理解出来ない__俺の業深さなど。
 そして、俺も知らない__俺達が行き着く先に何が在るのか。



 「ジョニィ、愛してる」



 白昼夢というよりはデジャヴに近い。フラッシュバックのように鮮烈に、それでいて走馬灯のように淡く、なのに心中を掻き乱して已まない感情の名前を、俺は知っている。
 まだ、口にする時ではないだけだ。







2013-03-08