深海魚が二人




 「ジョニィ、少し一人にしてくれ」

 時々ジャイロはそういってキャンプから離れる。昼の砂漠、夜の荒野、山中の洞窟。例え何処であってもジャイロは、この時ばかりは単独行動を取る。別段、僕が何かを言う事はないし、言う必要もなければ、義務も、権利もない。
 ジャイロには極端に干渉を嫌う話題があった。それは、ジャイロの出自に関して。偶々目にしたジャイロの荷物から、何か重大な目的があってレースに参加しているのは解ったが、それまでに留まっていたし、留めていた。
 ルールその一、ジャイロの出自をこちらから話題にしてはいけない。
 それは、ジャイロと行動を共にした僕が最初に覚えたタブーだった。






 他の国はどうか知らない。少なくとも、ジャイロの祖国であるネアポリスでは、死刑囚は必ずある一族の手によってのみ裁かれた。それがジャイロの一族、ツェペリ家だった。
 死刑執行人は王族関係者という重要な位置に就きながら、それでいて世間からは隔離されていた。迫害、があった訳ではないが、その存在は公にはされるものではない。普段は医師として市井に紛れていた父の死刑執行人という職業は、嫡男のジャイロを以てして十三年もの月日の末に知り、驚嘆した事実だったのだ。

 __医学を修めよ、そして、ひいては人の為に。
 __武道を修めよ、そして、ひいては家族の為に。
 __鉄球の回転を習得せよ、そして、ひいては__国王の為に。

 数百年前の東洋の島国では十にも満たない子供が、その肩に一族の威信を背負って戦に参じた、という話を絵空事のように耳にしていたジャイロだったが、父から死刑執行という課せられた任務を始めて聞かされた時は、流石に心中で怖気づいたものだ。
 あれから十一年が経ち、医者として生活しつつ、死刑執行人の助手として様々な死刑囚の断末魔を聞いてきたが、ジャイロの中には葛藤があった。

 先祖代々受け継がれてきた、国王からの名誉ある任務とは言え、人の首を断つような所業が果たして許されるのだろうか。
 自分にそのような資格があるのだろうか。
 誤った法の為に、または劣悪な環境故に仕方なく、または不慮の事故で、または生きながらえる為に、犯した罪で死刑を科せられる人の命を断って良いものか。
 他者の死の尊厳を守らなければならないと言うのなら、他者の命の尊厳も守らなければならないのではないだろうか。

 自問自答を繰り返す中で、自身を嘲る声も脳内に響いた。当初は幻聴のようで、何度気が狂いそうになったか分からないが、それが自身の声だと気付くと、ジャイロは静かにそれに耳を委ねるようになった。

 「罪人の穢れた血で手を穢すのが怖いのか」
 __違う。人の血液に清潔などという概念はない。
 「そうだ、望むままに患者の血で何度も穢れただろう。今更だ」
 __違う。あれは必然だった。命を救う為に。
 「生死に関与するという点において、医療行為と死刑執行になんの変わりがある」
 __違う。生かす事と死なせる事は、決して同じではない。
 「そう言いながら俺は何度患者を死なせた……?」

 心肺の停止、処置の遅れに加え、術中のミスは何度も体験した。搬送中に息を引き取った患者もいれば、何とか回復したのに意識が戻らず、数ヶ月の後に意図的に安楽死させた例もある。

 これだけ死に塗れておいて、いざ決定的で能動的な死に直面して怯えているだけに過ぎない事を、ジャイロ自身痛いほど自覚していた。自覚していてなお、葛藤を昇華しきれない自分を、父は笑うような事はしないだろう。ただ重い溜め息を吐き、目を伏せるだけかもしれない。
 それが、ジャイロにとって一番避けたい事でもあった。
 一子相伝の一族の誇りに、不甲斐ない自分が泥を塗る訳にはいかない。父と、祖父と、曾祖父と、それ以上にジャイロが背負うべき期待や重圧は、他でもない国王から容赦なく与えられる。ツェペリ家の男だから、自分はこれを背負い、繋ぎ、そして我が子へと伝えなければならない。

 知っていた。十一年前のあの時から、知っている事だった。身体は徐々に術を習得していき、国王からの信ある任務という事実が心の支えになり、誇りとなっている。それでも、逃げ出したくなるほど嫌で、泣きたくなるほど全てが必然だった。

 __男には地図が必要だ……荒野を渡り切る心の中の地図がな。

 父、グレゴリオの厳格な声が辺りに木霊し、ジャイロの骨の髄に刻まれる。

 「……私に、選択の余地など無い……」

 感傷、という事に関して、一度だってジャイロはグレゴリオに逆らった事がなかった。否、逆らう事は許されていなかったのだ。
 何かを感じる事は、ツェペリ家の男として生まれた自分にとって最も避けるべき事だったし、避けるべきだったからこそ、まだ火遊びが過ぎた折には何度も手を出したが、決定的な事件が起こって以来は手を出す事もなかった。

 __あたしはしてない!やめて!死にたくない!!

 あの少年の一件が起こるまで、法に対して何の違和感も覚えなかったジャイロだったが、今思えば、泣き叫びながらグレゴリオに首を断たれた元恋人も、もしかしたら冤罪ではないのか、とすら思える。
 しかし、法の決定において死刑執行人は出来る事など、何一つない。有罪で、禁固刑ならば看守の管轄であるし、刑罰ならば拷問人の管轄、そして死刑になってようやく死刑執行人の管轄になるのだ。ジャイロに与えられるのは死刑が決定した、という旨の書類と死刑囚だけでしかない。

 「……私に、選択の余地など無い……」

 死刑執行人という任務が、余りにも苛烈過ぎた。
 一族を継がねばならないという立ち位置が、余りにも重過ぎた。
 人を手に欠ける所業が、余りにも恐ろし過ぎた。
 そして、そのどれもが、ジャイロという人間には酷過ぎた。

 「……私に、選択の余地など無い……」

 繰り返し呟いた台詞は、もう何度目のものだっただろうか。それでも、そう言わずにはおれなかった。そうでもしなければ、この心の臓を取り出してしまいたくなるような痛みに襲われるのだから。

 納得しなければならなかった。
 この慟哭すら許されない立ち位置に。
 納得。それがツェペリ家に生まれた、ジャイロの最終防衛ラインでもあった。






 「星は綺麗だった?」

 キャンプに戻ったジャイロには、昼でも夜でも、そう聞く。何となく、それが僕の中の決まりというか、ルールのようなものだった。ジャイロも何となくだけど、意味を察しているらしい。
 単独行動の間に、ジャイロが何をしているのかは知らない。僕の問いに関して、綺麗だった、と応えたら取り敢えずの機嫌が良いという事。

 「見えなかった」

 と応えたら機嫌が悪い事。それぐらいしか僕には解らない。
 機嫌が悪い時、ジャイロは決まって僕の入れた紅茶を飲むけれど、それで落ち着いた例は今の今までで一度も無い。単なる手持無沙汰なのだろうけど、飲むからには少しぐらい気分を落ち着かせてくれないか、という台詞は心中で吐く事にしている。

 「……お前、これ終わったらどうすんだ」

 ルールその二、ジャイロの機嫌が悪い時はレースに関する話題を避ける事。

 「僕は、そうだな……騎手に戻るよ。元からそれしか能がないしね」

 ジャイロは、とは聞けなかった。
 紅茶を入れたマグカップを片手に、何かを考えているようなジャイロは口を開こうとしない。思案するように、しかし熟考しているようで目は朧気だ。

 「……俺、どうしようかな……」

 ポツリ、と呟かれた言葉が、ジャイロの本音だったように感じた。何に対する本音かは解らないけれど、直感的にこれがジャイロの本心だ、と思った。
 重大な目的があってレースに参加しているというのに、レース後があやふやな状態というのが何を示しているのか、僕には全く解らないけれど、それでも僕の口は自然に開いた。

 「僕んち来る?」

 一瞬ハッとしたようにジャイロは動きを止めて、僕を凝視する。何か変な事でも言ったかと思ったが、別段おかしな事を言ったつもりもない。そんな僕の怪訝な雰囲気を感じ取ったらしく、ジャイロは僕から視線を外してマグカップに口を付けた。
 突然打ち切られる会話にも、気紛れなジャイロの性格にも徐々に慣れてきた僕は、特に気にする事もなくキャンプの火を見つめる。煌々と照らされる闇は何物も映す事なく、ただ透き通っていて、まるで海の底のようだと思った。
 海の底も、この荒野のように何もないのだろうか。少しの海藻と、隆起した地面に包まれて、そこに生きていたとしても、何を道標にすれば良いのか、僕ならきっと迷ってしまう。そういえば、海の底、太陽の光さえ届かない程の深い海では、生き物達は自ら発光するという話を聞いた事がある。そんな事、本当にあるのだろうか。あるとしたら__

 「……今日は星が綺麗だな」

 誰かを道標に生きる、というのはロマンチシズムに溢れていて、おとぎ話のように僕達を魅了し続けるのだろう、と思う。







2013-01-11