ドッペルゲンガーの居場所




 「ジョニィ」

 まどろみの中で君の声が聞こえた。
 それに誘われるように僕は目を開ける。

 「ジョニィ」

 少し悲しそうに顔を歪めた君が、まだベッドに潜り込んでいる僕を見下ろして、ただ名前を呼び続ける。その声は今にも泣きそうで、それでいて僕には色を孕んでいるようにも思えた。

 「ジョニィ」

 ああ、そんな声で呼ばないでほしい。
 でも、そんな声をもっと聴いていたい。
 相反する二つの劣情に促されるまま、僕は君に手を伸ばした。一瞬驚いたような顔をして、次には目から一筋の涙を流した君に、僕は口付ける。一度目は触れ合うように、もう一度、確かめるように。

 「ジャイロ」

 夢はまだ覚めない。
 このまま夢の中にいれれば良いのに。

 「ジャイロ」

 君の長い銀糸に指を絡ませ、もう一度、寝起きにしては深い口付けを交わそうとした僕に、君が告げる。



 「ジョニィ……ごめんな……」



 その一言に、前日の事が次々と僕の頭の中でフラッシュバックした。

 灰色の空、暗い海の中から僕を引き上げたジャイロ。
 シャワーと食事を終えて、談笑をしたジャイロ。
 地図を興味深そうに見つめるジャイロ。
 彼は、僕の知っている、僕が焦がれて已まないジャイロでは、ない。

 「……紛らわしいよ、ツェペリ」

 自分で想像していたよりも低い声が出た事に驚いたが、目の前にいるジャイロ・ツェペリは、僕が口にしたツェペリという呼称に酷く衝撃を受けたようで、悲痛な表情で目を見開く。正直、ジャイロと同じ顔で、そんな顔をしないでほしいのだが、彼はジャイロではないから。

 「……ジョニィ」

 ほら、そうやってジャイロと同じ声で僕を呼ぶ。
 酷く不愉快で、酷く心苦しい。

 「気安く僕の名前を呼ばないでくれ」
 「っ……」

 狼狽するツェペリを余所に、僕は思考の波に身を任せる。
 これから、どうしようか。

 レースが終わって早数週間。来る日も来る日も、ただひたすらに海岸線を歩き続け、そうして得た返答は絶望以上の何者でもなかった。ジャイロはいない。あの時、引き寄せられていた大西洋が、どこを中心点としてのものなのか分かればマシなのだろうが、それは難しいだろう。そして、ジャイロを浚って行った海流も、最早数週間の時が経っている。大量の血液を流出していたジャイロの身体は、獰猛な海の狩人達の恰好の餌だ。大統領の言葉通り、朽ちているどころか、今はもうその僅かな痕跡すら残ってはいないだろう。
 今や残っているのは、ジャイロの残した鉄球のみ。
 これだけでも、ジャイロの祖国、ネアポリスへと送り届けるべきだろうか。

 そして、あの聖人の遺体をどうしよう。
 物置部屋にずっとしまっている訳にはいかないし、本来の目的が叶ってしまった僕にとっては不必要なものだ。本来、在るべき場所に返すのが妥当だろう。ジャイロの口にしたバチカンという場所に行けば、あるいはそこが在るべき場所、なのかもしれない。
 また、長い旅になりそうだ。

 そこまで考えて、僕は漸く目の前のツェペリが立ち尽くしている事に気付いた。

 「……何、ツェペリ」

 僕の冷ややかな声に、とツェペリの肩が跳ねる。僅かに聞こえた空気を呑む音が、僕の態度を非難するようで居心地が悪い。そしてそれが全てジャイロであって、ジャイロでないのだから、余計に癪に障る。

 「その、朝だろ?悪ぃと思ったんだがよ……飯、作ったから、食わねぇか?」

 そう言われてから、妙に香しい匂いが鼻腔に充満しているのに気付いた。ツェペリとは、あまり深い関わりを持ちたくないが、食欲という本能には勝てない。

 「……じゃあ、いただこうかな」






 ジャイロとツェペリが別人だと分かっていても、こんなところまで同じなのか、と感心してしまう事の方が多い。だから、絆されてしまいそうになる。

 「あ、これ……」
 「その、よ……お前さん、薄切りのロースをパスタに入れんの、好きだったろ?」
 「……」
 「懐かしいな〜と思って、作っちまったぜ。ニョホ、ホ……」

 寸分違わない思い出。荒野での野営中にしたやりとり。僕とジャイロだけしか知らない筈なのに、彼は、ツェペリはそれを口にする。ジャイロが生きていたら、こんな風に穏やかに過ごす時があったのかもしれない。

 「俺はホット・パンツの野郎みてぇにサンドイッチにしようって言ったのに、お前さんったら話聞かねーで鍋にブチ込んでよ〜」

 そんな事もあった、とツェペリの話を聞きながら、僕はパスタに紛れた薄切りのロースを噛み締めた。設備が整っているから、味は格段に美味くなっているが、確かにジャイロの作ったものと同じ味がする。
 その事が、哀しくて堪らない。

 「ジャイ、ロ……」

 フォークを置いて、馬鹿の一つ覚えみたいに溢れる涙を掌で隠した。それでも嗚咽は漏れるし、ジャイロの名前を呼ばずにはいられない。
 ジャイロ、君が生きていたら、こんな未来が僕達を待っていたんだ。平和に日々を過ごし、命の危機に怯える事もなく、レースの話を肴に、こうして安寧を過ごす事が出来たんだよ、ジャイロ。君の秀逸なギャグの一つ一つにだって、馬鹿笑いが出来たのかもしれないのに、君がいないなんて、君に瓜二つの同姓同名しかいないなんて、酷過ぎるよ、ジャイロ。

 「泣くなよ、ジョニィ……」

 聞こえた声に思わず顔を上げると、向かい合ったテーブルの対面からツェペリが身を乗り出していて、僕に伸ばした手を所在無さげに彷徨わせていた。
 涙をそのままにツェペリを見ていると、罰が悪そうに顔を歪める。

 「あー……悪い」

 ツェペリはそれだけを口にして椅子に深く腰を下ろし、グラスに口を付けた。一口飲んで、グラスの淵を人差し指でなぞって、視線を逸らし、虚空を見つめる。ジャイロが困っている時の癖だ。
 昨日、利き手の事なんかに気付かなければ良かった。
 昨日、ツェペリが僕の疑問に対して否定していれば良かった。
 良かった、良かった、と仮定の話は浮かぶのに、それらが何の解決も示していない事を僕は知っている。意味の無い事だ。僕がジャイロを求めて已まない事も、僕の目の前にいるのがジャイロであってジャイロではない事も。

 「そんな、ところまで……」

 そんなところまで同じだなんて、酷過ぎる。
 違うと感じたのは利き手と、揺れる視線。
 それでも、彼は、確かにジャイロであって。
 それでも、僕は、無二を求めていて。

 「なぁ……泣くなよ。俺まで哀しくなってくんだろ……?」

 __泣くなよ、ジョニィ。ったく……俺まで泣けてくるぜ__。



 君であって、君でない事。
 存在証明と確信。
 僕達が育んだものは確かに潰えたのに、僕がそれを欲した過ち。
 君を模った君為らざる者が、僕の前にいる理由、所以。



 悲嘆で死んでしまうならそれでも構わない。ただ君を想って命尽きるのなら。でも、目の前にいる彼に縋りたくないと言えば、嘘になる。
 ツェペリが決して僕と共にいたジャイロではないと分かっているし、だからこそ距離を置こうと敢えて冷たくしている筈なのに、それでも僕に接してくるツェペリの一挙一動が、こんなにも僕の心を揺さぶって、揺さぶって、溶かしていく。

 「泣くなって。飯、冷めちまうぜ」

 泣くな、と言われても、ツェペリが放つ一言一言が哀しくて、涙が止まらない。

 「泣き虫は相変わらずか?なぁって。泣き止んでくれよ」

 違うと分かっているのに。分かっているけど。胸から溢れて、じわじわと僕を侵していく幸福感を手放すなんて、僕には出来る訳がないのだ。その事実が哀しくて、僕達の育んだものを裏切っているようで、悲しくて、僕の涙はまだ収まりそうにない。

 「うるさいよ、ツェペリ。パスタが美味しいんだ」

 視界に映るツェペリの顔は情けないほど眉尻が下がっていて、何故かこっちが悪い事をしたような気持ちにさせられる。
 それが何となくムカついたので、睨みつつ苦し紛れに言葉を吐いてみたけど、支離滅裂で意味が分からない。それもこれも、全部ツェペリの所為だ。

 「……美味過ぎて感動したのか?」
 「そこまで言ってないだろ」
 「いや、俺にはそう聞こえたね」
 「おめでたい耳だね、羨ましいよ」

 まだ、全然整理が出来ない。納得がいかなければ理屈も思い付かなくて、混乱している。混乱しているけど、目の前にあるツェペリは、多少の差異こそあれど、ジャイロだ。やっぱり、理解のしようがない。



 ジャイロ、君がいないのに、君がいる。
 ジャイロ、僕はこれすらも手放したくないよ。
 ジャイロ。

 ジャイロ、僕は__。







2013-03-02