それはわがままにも似た切望




 望み続けたものが差し出された時、人間は一様にその事象を疑いに掛かるというものだ。それはジョニィとて例外ではない。何度も隣を歩くジャイロを見つめる。視線が合う度に揶揄されたが、それでも目が離せないのだ。
 夢ではないのか、と思う。やはり自分は先程溺死して、今いるのは天国か何かではないだろうか、とも思う。
 しかし、耳に届く言葉の全ては、他の誰でもないジャイロから発せられるもので、その声をジョニィが聞き違える筈もない。

 「おいジョニィ、いいから俺の言う事聞けって。風邪ひいたらどーすんだよ」
 「それは君も一緒だろ。僕は平気だよ」
 「とか言いながら顔色ヤベェってマジ。お医者さんの言う事聞きなさい」
 「もし君が上着脱いだら、僕がパスタ作るからね」
 「げっ……それ、反則じゃね……?」

 半ば条件反射のようにジャイロと会話するジョニィだったが、意識を傾けるのは視界の隅で揺れるジャイロの髪。少ない光を反射して白銀を湛えるそれは、ジョニィが探し求めていたものだ。
 一房掬って、口元へ。
 潮の味に混じって、微かにジャイロの香りがする。鉄と、本と、ジャイロという一人の男の香り。レース中に纏っていた煤けた荒野の匂いは、少しもしない。レースが終わった今、それは当たり前の事なのだが、ジョニィの脳裏には大西洋に攫われるジャイロの姿が未だ色濃く刻まれているのだ。
 それを掻き消すように、ジャイロの存在を確かめるように、鼻から深く息を吸った。

 「……お前さん、ほんっと嗅ぐの好きね」
 「うん……。ジャイロ、本読み過ぎだよ。新しい紙の匂いがする」
 「匂いで俺の生活習慣を指摘すんの止めてくれるー?」
 「レース中は油の匂いで臭かったもんね、君」
 「犬並みの嗅覚は健在ですか、そーですか。解ったから髪離しなさいな」
 「もうちょっとだけ」

 口では文句を言いながらも、結局ジョニィを無理に引き剥がそうとしないジャイロは、レース中の、いつものジャイロだ。まだ夢を見ているような気分が、天国にいるような気分が抜けず、思考がまとまらなければ、寒さすらも感じない。
 フ、と足を止めて上天を見上げた。

 神がいると言われたら、嘘だと言えた筈なのに、今ならその存在を信じられる気がする。代わり映えのないニューヨークの曇天が眩しく見えるのは、隣にいる存在の所為だと言っても過言ではない、少なくともジョニィにとっては。海から吹きつける風に、重く唸る銀糸は確かにそこに在って、思わずジョニィの視界が滲んだ。

 「__Oh, my God」

 一度溢れた涙は、やはり収まりそうにない。ツ、と頬を伝い、静かに落ちる涙に、漸くジョニィの身体は震えを取り戻した。
 何度ジャイロを想って身を焦がしたのだろう。積年、という訳ではないが、それでもジョニィの心を崩壊させるには充分な日々だった。全ては終わった事なのだと忘れる事も、思い出にする事も出来ずに、長い悪夢を彷徨っていた気がする。今こそ感謝している神を、何度呪い、何度罵り、そして自分自身を何度責めただろう。前に進む事も、そして過去に戻れる訳もなく、ただ想う事だけに全てを費やしてきた。
 努力という訳ではない。しかし、報われた気がしたのだ。

 「おいジョニィ!早く来いよ!俺、お前ん家どこか知らねーんだけど!」

 生きていて良かった。心から、そう思った。






 「何か、夢みたい」
 「お前さん、それ何度目よ」

 温かいシャワーを浴びて、馬屋で馬達に餌を振る舞って、食事を取っていつもと同じ生活の筈だというのに、隣にジャイロがいるだけで全てが色鮮やかに見えた。
 二人掛けのソファに座るジャイロの格好はラフで、テロリストや大統領の刺客に狙われ続けていたレース中の様子からは想像出来ない程リラックスしている。相棒、医者、処刑人、そのどれとも違う、ジャイロ・ツェペリという一人の男と接しているのだと今更ながらに気恥しくなったジョニィは、ジャイロの腰に腕を回して肩に額を擦り付けた。温かく伝わる体温が、どうしようもなく嬉しい。

 「Che carino, pulcino mio」
 「ちょっと、訳分かんない言葉話さないでよ」
 「何だよ、甘えてんじゃねーの?」
 「僕に解るように話して。ラテン語とか、そーゆーのは駄目」
 「普段からラテン語話す奴はいねーだろ……」

 食後のコーヒーで一息ついてしまえば、話題は絶えない。他愛もない話はよく弾む。レース中こそ他の目的があって会話を中断する事はあったが、今はその心配も不要だ。双方とも、存外に表情が柔らかくなり、殺伐とした警戒心や漆黒の意思すら、今は微塵も感じない。
 じわり、じわりと侵食していくように安堵がジョニィを満たせば、次は疑問の波が押し寄せてきた。現状の事、今後の事、確かにそれらも気になる。しかし、それ以上にジョニィはジャイロが生還した理由について知りたかったし、ジャイロも大統領との戦いの行方を、何よりもジョニィの足が動くようになった経緯を知りたいだろう。

 「ジャイロ」
 「んー?」
 「今までどこにいたのさ」
 「あー……俺もよく解んねぇんだけどよ、気付いたらニューヨークにいて……まあ、金も持ってたからよ。ボーっとしてたな」

 相変わらずのマイペースさに呆れて、ジョニィは深く溜め息を吐いた。が、それなら、と語尾を強めてジャイロに掴み掛かる。

 「……何それ。レースの行方とか気にならなかった訳?っていうか生きてたんなら僕に連絡してくれたって良いだろ!」

 今までどんな思いをしてたと思っているんだ、と再び緩み始めた涙腺にジャイロが狼狽する。

 「む、無茶言うなって!俺だって怪我してなかったら……それにヴァルキリーもいなかったしよ〜」

 怪我、の言葉にジョニィの動きが止まった。
 撃たれたのだ。何度も。大統領のスタンド、D4Cに敗れて、大西洋に呑み込まれて尚、撃ち込まれた弾丸。弾丸。何度もジャイロの身体を傷付けた、弾丸。青くもなく、ただ荒野を潤した大西洋はジャイロの身体から流れ出す血液のみで彩られていたのだ。
 突如視界に過るフラッシュバックがジョニィを襲う。赤い血、紛れもなくジャイロの胸部複数箇所に空いた風穴。今も尚、それがジャイロの身体を蝕んでいる可能性は十二分にある。
 思うが早いか、ジョニィは徐にジャイロの胴体を弄りだした。

 「きゃあぁあぁああああああ!!!?!?」

 意図してか、咄嗟か、響いた叫びに全身から思わず力が抜ける。これが咄嗟のものなら少し引くかもしれないと思いながら、ジョニィは動きを止めない。反射的に腰の鉄球に伸びたジャイロの手を確認して、脅す。

 「鉄球、投げたら、引っこ抜く」
 「何を!?何を引っこ抜くんだジョニィ!!っていうかマジ、ちょっ!!」
 「気持ち悪い声上げないでよ。マジでタスクするよ。タスクタスクタスク」
 「タスクは動詞じゃあねーでしょうが!俺の純潔が穢される!!」
 「ジャイロ煩い。ちょっと黙ってくれないかな」
 「ジョースターさんそれ俺の乳首です痛い痛い!引っこ抜かないで!!」

 __ない。
 触った限りでは傷跡も確認出来ない。ゾンビ馬を使って治したのだろう、それでも酷い痛みだった筈だと思うと、そのままジャイロの腰に回した腕に力が入る。
 再び肩に、今度は鼻を押し付ける。
 吸って、吐いて。

 「何なのよオタク〜!俺がいない間に変な性癖でも発現したのか〜?」
 「……かもね」
 「っていうか匂い嗅ぎ過ぎじゃあねーの。何、俺臭ぇの?」
 「うーん……今は、石鹸と、チーズと、コーヒーと、皮と、研磨剤と、潮と、バゲットと__」
 「うん、解った解った。臭くはねーのな」

 後ろ手に髪をクシャクシャと撫でられる。想像より柔らかい手に触れられるのが気持ち良くて、強請るように額を擦りつければ苦笑を漏らされた。
 ゆったりと流れる時間。とろ火で焙られるように、温かさが侵食していく。まどろんでしまいそうな程に穏やかで、当たり前、だ。もっと劇的に、感動的に、そんなものを想像していたが、全く違う。水彩の極彩色を少しずつカンバスに沁み渡らせていくように、視界に映る全てが彩りを孕んでいく。

 「そーいえば、ここってニューヨークのどこら辺なんだ?」

 適当にテーブルに放っておいた地図を興味深そうに眺めてジャイロは尋ねた。
 レース中に眺めていた地図よりも、事細かに街の情報が記載されているそれは、ジャイロにとってかなり面白味のあるものらしく、書かれた文字の一つ一つに熱心に目を走らせている。
 こうなったら暫く地図を離さないだろう、とジョニィは内心で溜め息を吐いた。貪欲な好奇心を持つジャイロは、一度興味を持てば、それを知り尽くさないと気が済まない質だ。一ヶ月もあれば、ここニューヨークの地図を全て頭の中に叩き込んでいるだろう。見知らぬ土地で胆を小さくするジャイロを見てもみたかったが、一人で渡米するぐらいだ。それは叶わぬ願い。ならば逆に道案内をしてもらうのも良いだろうと、ジョニィは傍らに置いてあったペンで地図に色々と書きこんでいく。

 「僕の家はここ。海近かったでしょ」
 「わ、すっげー端っこじゃん」
 「因みに、レースのゴールはここね。行きつけの市場がここ。肉工場がここ。スローダンサー達の餌はここで仕入れて……あ、ここの牧場主が良い人なんだ」
 「ニューヨークすげーな。何でもあんじゃん」
 「まーね。あ、ジャイロの家ってどこ?」

 そう言ってジョニィはジャイロにペンを渡した。
 それをジャイロが受け取る。



 左手で。



 「俺ん家はここ。っつってもシャワーとトイレが付いてるだけのとこだけどな。家主に事情を話したら__」
 「ジャイロ」

 ポツリ、と呟いたジョニィの台詞は、宙に放り出される事無く墜ちた。
 何かが違う。

 「どうしたよ、ジョニィ」
 「……左利き?」
 「あー、咄嗟に出ちまうんだよなー。昔治したんだけど……って、これお前さんにも話しただろ」

 違う。
 違う。
 違うんだ。

 ジョニィの脳内で警鐘が鳴り始める。気にしなければ良いのに、気付かなければ良かったのに、一度歪みだしてしまえば、崩壊は免れないというのに。
 走馬灯のように繰り返し上映される思い出。レースの日々。決定的に、違う。

 鉄球を投げる手は、
 ヴァルキリーを撫でる手は、
 薪をくべる手は、
 地図にルートを書きこむ手は、
 ジョニィの頭を撫でる手は、



 右手だ。



 「__君は、誰?」

 唇が、震える。
 手にしていたものが、崩れていく。

 「ジョニィ?」

 酷く困惑した顔でジョニィを振り返るジャイロは、ジョニィの知るジャイロと寸分違わない。しかし、決定的に違う。

 「違う……違う、違うんだ……ジャイロは、そうじゃあない」

 立ち上がって、距離を取った。ジャイロ・ツェペリ、と名乗る人物から。
 少しずつ距離を置くジョニィに、ジャイロは悲痛でいて、何かを諦めたような表情を浮かべるが、それこそがジョニィの疑問に対する肯定だったのだろう。

 「……ジョニィ……」

 絞り出された声は、今まで聞いてきたどんなジャイロの声とも違う。ジョニィの知っているジャイロ・ツェペリは、そんな切ない声を上げない。そんな揺れる瞳ではなく、確固とした自信を持った男だ。
 この男ではない。違うと解っているのに、まさしくジャイロの容姿と声を以てして、男はジョニィを呼ぶのだ。ジョニィが、幾度となく求めた、その声で。

 「僕に話し掛けるのはやめろっ……!」

 言って、何かがジョニィの頭を過る。過るが、過っただけで、何の展開も生まない。
 求めたのはジョニィである筈なのに、拒絶したのはジョニィである筈なのに、相反する二つの感情が交じって、ジョニィの頬を伝う。

 「……君は、君はジャイロじゃあ、ない……少なくとも、少なくとも僕と一緒に旅をしてきたジャイロじゃあ……僕と共にいたジャイロじゃあ__」

 滲んだ視界の中で、ジャイロの顔が歪んだ。

 「__ないんだろ……ジャイロ・ツェペリ」






 望んだからか。
 願ったからか。
 祈ったからか。
 彼を想って涙した事への、これが罰だというのなら、
 神様、僕は、もう何も要らない。







2013-02-14