「そういう事なら、そういう事で良いんだ」
良い事なんて、何一つない。
「じゃあな、元気でな」
君を攫った大西洋は今、ただ無情に僕の足を浚った。
レースには敗れ、ディオにも敗れ、しかし、そのどちらも僕にとっては曖昧なものだ。元々僕は鉄球の為に、遺体を手に入れる為にレースに参加していたに過ぎない。それに、ディオと、ディオに奪われた遺体についてはルーシーから事の顛末を聞いていた。
僕の家の物置部屋に眠る遺体。どうする事も無く、どうする術も無く、僕の手に余る無用の長物。ジャイロを失った切欠。
元々ニューヨークに住んでいた僕の家から海岸までは近く、近いからこそ、毎日朝から晩まで途方も無く海岸を歩き回った。見える筈もない銀糸を探して。
雨が降らなくても、雪が降らなくても、冬の空は一様に雲に遮られて濁っている。滅多に陽の光は拝めないし、冷たい風は鋭いナイフで刺すように僕の頬を打つ。
レースが終わってから動くようになった足で砂を踏み締め、靴を脱いで海に足を浸す。さらさらと浚われていく砂につられてバランスを崩しそうになるけれど、今は踏み締めてそれに抗う事が出来る。
真冬の一月の海は凍るほど冷たく、燃えるほどの熱を感じさせる、感じる事が出来るようになった。何度もそんな事を繰り返す僕は、端から見たらそれは変な奴に見えるかもしれない。それでも、構わなかった。
自分の足で歩けるのが、地を踏み締められるのが、冷たさを感じられるのが、どうしようもなく嬉しい。
そして、隣にジャイロがいないことが、どうしようもなく寂しい。
無意識に頬を伝う涙は、僕の視界をぼやかす事もせずに溢れる。
泣き虫だと揶揄する君も、呆れたように笑って宥めてくれる君もいない。いない。いっそ声を上げてみっともなく泣き喚けば、とも思う。それでもそれをしないのは、他の誰でもない僕自身が、無駄だと知っているからだ。
ジャイロは死んだ。撃たれて、撃たれて、ヴァルキリーから落馬して、撃たれて撃たれて撃たれて、沢山の血を流して、この大西洋に攫われたのだから。
「ジャイロ。……君に、会いたいよ」
歩けるのに、歩けないまま、僕は足を止めてしまった。見えている筈の道にも、答えにも目を背けて。ただ、ジャイロがいない世界で生きる僕自身を受け入れられないでいる。
君なしで生きる僕を虚しいと言えば、君は笑うのかな。
君なしで生きる僕を苦しいと言えば、君は現れるのかな。
呼吸を忘れた魚のように口を開閉させても、漏れ出るのは滑稽な嗚咽だけで、意識が霞む。過呼吸ってやつかな、と冷静な思考とは裏腹に、身体はグラつく。波に、足を奪われた。
このまま君を追うのも乙かもしれない。ただ、自宅に放置したままの遺体と、馬屋にいるスローダンサーとヴァルキリーだけが気掛かりだった。特にヴァルキリーはジャイロの事があって以来、あまり食事を取らなくなってしまったから、僕が死んだら__。
「ジョニィ__?」
懐かしい声を聞いた気がした。
冷たい海水が僕の体温を急激に冷やしていく。
浅瀬から一歩を踏み出して、落ちる。
抉り取られた砂は口を開いて僕を呑み込んだ。
波の回転に揉まれるより早く、深い所へ沈んでいく。
すぐに麻痺した感覚の所為で、水がやけに心地良い。
コポリ、コポリと、僕の口から泡が。
水面に向かって。
雲間もない癖に、海面が酷く明るく感じる。
ゆらゆらと、光が僕の頭上で揺らめく。
僕を誘って。
あたたかい。
あたたかくて、涙が出そうだ。
もう、泣き続けているけれど。
もう、泣いても解らないけれど。
ジャイロ。
光が、輪郭を、象って、君を、見せる。
やっと、やっと、会えたのに、君。
辛そうに、痛そうに、苦しそうに、君。
ジャイロ。
君、僕、遮る泡、僕の口。
重い。
手を、君。
触れる。
身体、身体、感じる、君。
君、君、君、口、泡。
ジャイロ。
暗くて、苦しい。寒くて、冷たい。
誰かが僕の身体を揺すって、口を塞がれて、息が。
「っ……ゲホッ!ぐっ…う……ゴホッ!」
「……目、覚めたかよ」
状況が上手く理解出来るまでに思考が回復していない僕に、冷たい声が降ってくる。聞き覚えのある声だったけど、生憎と今は呼吸をするのだけで精一杯だ。
しかし、その人物は容赦なく言葉を続ける。
「……お前、自分が何したか解ってんのか?あのまま俺が助けなけりゃ今頃死んでたぞ!自殺なんか下らねえ事してんじゃあねえよ!!」
酷く、惨めだった。
沈みいく海の中で漸くジャイロに会えたと思ったのに、善意ある邪魔の所為で僕はまたこの世界に引き戻されてしまったのだ。本来なら感謝の一つを言っておくべきなんだろうけど、今の僕は理不尽にも助けられた事実に失望していた。
「……ゴホッ……っ、黙ってくれないか……」
「ああ?黙って堪るか!お前なあ__」
「黙ってくれよ!……君に、君に僕の何が解るんだよ!君が僕の何を知ってるって言うんだよ!!」
八つ当たりにしても、命の恩人にこんな口を叩くのは非常に失礼な事だとは解っているが、それでも僕の感情はトリガーを引いた状態で、僕は躊躇わずに引き金を引く事しか出来ない。
海中で、確かに僕の目の前に現れたジャイロ。あのまま死んでいれば、ジャイロと同じ処に行けたかもしれないというのに。そう思っていたら、また僕の目から涙が溢れ出した。情けない。僕は一人で死ぬ事も出来ずに、ずるずると思い出を引き摺って生きる事しか出来ないのだろうか。これが遺体を所持しているからこその奇跡だというのなら、今すぐ帰って遺体を引き裂いて家ごと燃やしてしまいたい。
そして、もう一度ジャイロに会いたい。
「泣き虫のジョー・キッド。わがままジョジョ」
その言葉に、僕は動きを止めた。
二つとも、ジャイロが僕をからかう時に使っていた僕の渾名だ。
「あ〜……あと、お前さんが虫刺されに興奮する奴だって事ぐらいなら知ってるぜ。ジョニィ」
勢いよく顔を上げる。それだけで視界が白黒して、驚きで涙が引っ込んでしまったというのに、目眩のように視界がハッキリとはしない。徐々に、徐々に明確になっていく視界の中、濡れてくすんだ銀糸が僕の目に飛び込んできた。
「……ジャイロ?」
「Si, ce l’hai fatta! 何を隠そう、ジャイロ・ツェペリ様だぜ」
「本物?本物のジャイロ?ユリウs」
「テメェそっから一文字でも母音発してみろ。おめーの飯だけ伸びきったパスタにしてやる」
まだ本調子じゃないというのに、無遠慮に片手で口元を押さえられて不格好な声が漏れたが、そんな事に構っている場合じゃない。
口元を抑えている柔らかい手の感覚。流暢に発せられる外国語。怒っていたかと思えば、食事をネタに意地悪な目を向ける仕草。本名に過剰な反応を見せる事。僕の事を、知っている。ジャイロだ。ジャイロ・ツェペリだ。
収まっていた涙が零れる。
「あ〜ったくよ〜。お前さん、さっきからちぃとばかし泣き過ぎじゃあねえか?ンなに泣いてっとカラッカラに枯れちまうぜ?」
「誰の、所為だよ……」
「知るかよ。つーか帰ろうぜ。寒い。俺腹減った」
帰ろう。
二人で、二人の場所に。
帰る。
随分長い間使ってない言葉だけど、あたたかくて、あたたかくて、僕の涙はまだ収まりそうにない。
「ちょっと見ねえ間に泣き虫に拍車が掛かったんじゃあねーのかジョニィよおー」
「久々に会ったんだから、もっと感慨深い台詞を吐いてくれよ」
2013-01-30