暖かい。ともすれば、幼い頃を夢見ているようだ、とジョニィは思った。
手を伸ばせば、アイボリーの柔いシーツに皺を作る。可愛らしく枕元に置かれたクマのぬいぐるみが、この空間に妙にマッチしていて、思わず笑みが零れた。なんて暖かい、なんて穏やかな。
カーテンを朝日に染める光は眩しく、寝起きの視界に入れるのは辛い。ぬいぐるみを抱き込み、もう一度布団を被り直して、まどろみを味わう。
これだけの事で、とも思わないでもないが、足が動かなくなって以来、初めて迎えた幸福な朝、と言ってもジョニィにとっては過言ではない。寝返り打つのにも一苦労し、面倒だからと寝返りを諦めれば、翌朝には倦怠感が襲ってくる。二年間、安息出来た例などないのに、今朝は余りにも快適過ぎて、まだ夢心地が抜けない。
「……ジョニィ」
ジョニィの顔に影が重なる。ジャイロだった。
昨晩はあのまま眠ってしまったのだろうか、だとするならこのベッドはジャイロの物かもしれない。悪い事をしたと思って謝ろうと起き上がったが、ジョニィが口を開くよりも早く、ジャイロが言葉を発した。
「Buon giorno. Domito bene stanotte?」
聞き慣れない単語に成す術のないジョニィは、持っていたぬいぐるみを無意識に強く抱き締める。ベッドを借りて、のうのうと寝ていた事を批難しているのだろうか、それとも皮肉でも吐かれたのだろうか。ジャイロの表情は穏やかだが、意味の理解出来ない言葉というものは、それだけでジョニィの心を苛むに容易い。
「ご、ごめん……僕……」
言葉尻が窄んで、上手く話せない。鼻が、ヒク、と鳴ってしまう。
そんな様子のジョニィに、ジャイロは慌てて言葉を切り替えた。
「悪い悪い、お前さんが言葉分かんねーの忘れてたわ」
そう言ってジョニィの頭を撫でるジャイロは既にサロンを身に付けていて、言外に仕事中なのだと分かる。家主が起きて仕事をしているというのに、まだ寝床にいるという状況が酷く申し訳なくて、ジョニィの眉尻は下がる一方だ。
「ちょ、おいおい何泣きそうな顔してんだよ」
「……だって、ベッド借りちゃったし、君が働いてるのに、僕、」
「ンなの気にしなくて良いって。それより身体痛む処とかあるか?」
「……?」
「ねーなら良いけど。部屋の中のもん勝手に使って良いから、仕度済ませたら店まで来いよ。廊下を真っ直ぐ行ったらカウンターの中に出れるから」
「え、え、ちょっと__」
「車椅子はベッドの隣に置いてっからなー」
捲くし立てて部屋を後にしたジャイロを見送りながら、ジョニィはもう一度ベッドに沈み込む。
「……変なの」
でも、嫌な気はしない。逆に、ここから離れ難くなってしまいそうな予感を覚えたジョニィだったが、取り敢えずは言われた通りに仕度を済ませて店に向かう事にした。荷物が見当たらないので、早々に出て行く訳にもいかない。
出て行けば、もう二度と会えないのだけれど。
「お、来たか」
ジャイロの言った通り、部屋を出て廊下を真っ直ぐ行けば、昨夜食事を取った場所に出た。カウンター、にしては少々広過ぎるそこは、テーブルと椅子だけでなく、ソファや小洒落たインテリアの小物まで置いてある。勿論飲食店独特の大掛かりなキッチンが目立つには目立つのだが、カウンターの中と言うよりは、キッチンとダイニングルームを合わせたような感じだ。
「待ち草臥れたぜジョニィ〜!ほら、昼飯食おうぜ」
テーブルに並べられているのは二人分の食事にしては些か量が多いようだが、ジャイロは当然のように席に腰を下ろしている。大盛りのパスタ、香しいパン、サラダも大きなボールに取り分けられているし、既に席に座っているジャイロはワインをグラスに注いでいる。
ジャイロの言葉からして今は昼食時なのだろうが、仮にも飲食店の店長が稼ぎ時に休憩を取っていて良いものなのだろうか、とジョニィの頭には疑問符が浮かぶ。
「ん?どしたよ」
「え、お店、良いのか?お昼は沢山お客さん来るだろ?」
「はあ?」
訳が分からない、というように目を剥いて素っ頓狂な声を上げたジャイロだったが、訳が分からないのはジョニィの方だ。暫くテーブルを挟んでお互いに疑問符を飛ばし合っていたが、ああ、と納得したようにジャイロが口を開いた。
「お前さん……ジョナサン、ネイサンだよな」
「……ジョナサンはともかく、ネイサンなんて誰も呼ばないよ」
「イギリス人?アメリカ人?まあどっちにしろ、シエスタは知らねーか」
「シエスタ?」
「取り敢えず、昼飯だ。乾杯」
言われるままにグラスを手に取るが、納得がいかないままのジョニィは口を付けるのを躊躇ってしまう。ジャイロは合点がいったらしく、ご機嫌にパスタを取り分けているが、どうしてもその姿に納得がいかない。
「……ジャイロ、説明してくれよ」
「シエスタだよ、シエスタ。ここら辺の国の昼休みだ。国民全員みーんな昼休み。最近は飲食店もバンバン開いてるし、別に店開けても良いけどよ、偶にはゆっくりしてーじゃん?」
「そんなの、困らないのか?」
「何でだ?」
「何でって……」
「まあ公共機関が止まったりするわけじゃあねえし、警察とか軍隊は動いてるから、別に困ったりは……あ、電車はストライキで止まるか……」
違いを体感せざるを得ない。国一つ変わるだけでこんなにも違いが明確だとは思ってもみなかったジョニィにとっては目新しく、そして新鮮な話だ。改めて、目の前にいる男が違う国の人間なのだと思い知らされたジョニィは、突如襲われた疎外感に、グラスをテーブルに置いた。
「ジョニィ?」
心配そうなジャイロの声がジョニィに届くが、それさえも今は自身を批難しているように思えてならない。
一体お前は何をしているのか。
何の為に生きているのだ。
自堕落に過ごす愚者。
糾弾の声はジョニィの頭の中に木霊して已まない。相容れる訳がないのだと、薄暗い声がジョニィの耳元で囁いた。この安寧を夢見る事は許そう、しかし、手にしてはならない、と。
暖かい部屋である筈なのに、指先から血流が遡るようにジョニィの身体を冷やしていく。目の前に広がる光景と、自身の境遇が酷くミスマッチである事に虚しさすら覚え、思わず唇が震えた。
「おいジョニィ」
「っ、なんでも、ないよ……ごめん、その……僕、迷惑だよな……」
寝床を占領して、食事まで御馳走になって。
消え入りそうな声でボソボソと告げる自分の声が泣きそうで、これではただの子供と大差ないと自嘲の笑みが零れたジョニィだったが、前触れもなく頭を掴まれて視界が揺れた。
「っ、な……!?」
「おいジョニィ〜、テメー今朝から謝り過ぎなんだよ」
翡翠の瞳が至近距離でジョニィを睨む。端から見れば柄が悪い事この上ないのだが、ジョニィは不謹慎にもその瞳に魅入ってしまう。
「俺は、俺が納得する事をやっただけだ。お前さんに謝られる筋合いなんかねーよ」
「で、でも__」
「うるっせーな、日本人かよテメー。謝るの禁止。厳禁」
言葉に詰まるのは久し振りだった。どう返答していいのか分からないが、それに苦悶を感じる事はない。
叱られている、ジャイロが怒っている、眉間に皺を寄せ、ジョニィを睨んで苛立っている。それ以上にジョニィは得体の知れないものを感じていた。
強いて言うなら、どこか懐かしい。
今の状況にあまりにも不釣合いで、そう感じたジョニィ自身、理解している訳ではないのだが、何故か唐突に懐かしいと感じたのだ。彼と会った事はない。少なくともジョニィがイタリアに訪れたのは始めての事であるし、もし会っているのならば、ジャイロのような人間をジョニィが忘れる事はないだろう。
それでも、懐かしい。懐かしくて、切ない。
「ジャイロ」
「何だよ」
「……ありがとう」
ありがとう。
その言葉に、何故か泣きそうになった理由を、ジョニィは知らない。
「Prego. どういたしまして、ニョホホ!」
2013-03-03