生きも出来ずに




 ダークブラウンとアイボリーを基調とした店内は、備え付けられた暖炉のおかげか、はたまた空調の所為か、想像していたよりも温かく、何枚にも重ねた服のままだと汗をかいてしまいそうなほどだった。男が薄着だったのにも頷ける。
 急激に温まっていく手を擦り合せながら、店内を見回す。天井から吊るされた小振りなシャンデリアと所々に置かれたキャンドルが、まるで飴細工のように艶やかなインテリアを照らしていて、思わず息が零れた。ロマンティックというよりも、甘い。古びているというよりも、味がある。老若男女、誰がいてもおかしくない雰囲気だが、今はジョニィと男以外の人は見当たらない。
 フ、と入口を振り返ってみると、男が外に出していたのであろう看板を中にしまっているところだった。
 声を掛けてくれた事が嬉しかった。車椅子を押してくれた事も。しかし、見知らぬ赤の他人、それも外国人と二人きりになると、ジョニィの心は一気に疑心暗鬼に傾く。只でさえジョニィは現金150万ユーロを持っているのだ。それに、例え万が一の事があっても大した抵抗すらままならないだろう。
 奥歯が、ガチ、と鳴った。

 「お前さん、飯何が良い?」
 「っえ」

 背後から急に声を掛けられて思わず身体が跳ねたが、男はそれを気にする事なくジョニィの返答を待っているようで、背後に感じる気配は動かない。それが更にジョニィの焦燥感を煽る。
 この男は、この得体の知れない外国人の男は、一体何を目的として自分に接触を試みたのだろうか。飲食代と称して、法外な値段を吹っ掛けて有り金を奪うつもりなのだろうか。それとも食事に何かを混入させて自分に危害を加える気なのだろうか。
 温まっていく身体は、急激に速度を上げた血液に比例してジョニィの思考を急かす。口を開かなければならない。しかし、何を言えば良いのだろうか。取り敢えず、

 「ぼ、僕、お腹空いて__」

 ないから、と続けるより早く、ジョニィの胃袋が空腹を訴えた。

 「ニョホホッ、随分腹減ってるみてぇだな〜。美味ぇの作って来てやっから、適当に色々見てて良いぜ〜」

 上機嫌に鼻歌を歌いつつ店内の奥の方へ向かった男に、これといって怪しい様子は見られない。それでも疑い深いジョニィは安心出来る訳もなく、ハンドリムを掴んで入口へ向かった。
 それなりのホテルなら英語が通じる客員がいる筈だろう。遅い時間にチェックインしたとしても、大金とそれなりのチップがあれば不自由はしない筈だ。と、少し重いドアを開いて先程までいた通りを眺めた。

 深々と降り積もる雪が音を食い尽していく。
 店に入ってから少ししか経っていないというのに、先程までジョニィが佇んでいた場所には雪が積もっていた。かなりの勢いで降雪しているというのに、風の音もしない。しと、しと、と雪が蓄積されていく音だけが、辛うじてジョニィの鼓膜を振るわせる。
 傘も差さずに、傘も差せずに、この数ヤード先も怪しい状態で外に出るのは無謀というもの。しかし、気が休めない環境にいるよりはマシだ、とも思う。しかし、手放し難い、とも思う。
 些細な一瞬。一言二言しか言葉を交わしていなくても、それがジョニィの心に文鎮のように圧し掛かる。誰かと会話するのは、あんなに甘美なものだっただろうか。あんなに、心穏やかになれるものだっただろうか。
 そうは思っても、疑ってしまう事はジョニィにとって仕方のない事でもあった。ニコラスの手紙、父親との一件、そしてこの二年間に受けてきた冷遇、自業自得、身から出た錆。思春期の多感な時期にそれらを一身に受けたジョニィは、自分に関わる一切と明確な線引きをする事で自己防衛を図っていた。しかし、ここに来て思わぬ接触を受けてしまい、困惑しているのだ。
 開いたドアから流れ込む冷気が、この混乱した思考を落ち着かせてくれるかもしれない、とハンドリムに手を掛けたところで、再び背後から男の声がした。

 「もしかして……おたく、誰かと待ち合わせでもしてたのか?」

 ギクリ、とジョニィの身体が固まる。待ち合わせなどしている訳ではない。その台詞に反応した訳ではないのだが、如何せん背後に立たれるという状況が心臓に悪いのだ。

 「な、んでも、ないよ」
 「なら良いけどよ。飯出来たから食おうぜ」

 男はハンドリムを掴んでジョニィを店の奥へと運んでいく。
 今更になって怖いと思ったが、それ以上に信じたいとも思った。






 「あ、ごめん。落とした」
 「お前さんは良いから座ってろっての」

 そう言われてジョニィは床に落としてしまった食器を片付ける男の後ろ姿を見つめる。
 男に誘われるまま食事を始めて数分、先程までジョニィの心中を埋め尽くしていた不安は杞憂に終わるどころか、半ば呆れに変わりつつあった。
 男はジョニィが動こうとする度に、代わりに、と動く。荷物を下ろそうとした時、厚着に厚着を重ねた服を脱ごうとした時、何かを取ろうとした時、今のように床に物を落とした時。まるで過保護な兄を持ったようだ、と思った。思ったと同時にジョニィの脳裏に兄、ニコラスが過る。

 __ジョナサン、お前さえいなければ__。

 まだ記憶に新しい出来事は、思い起こすには日が浅過ぎる。
 ジョニィの食事の手が止まった事に気付いた男が、心配そうにジョニィの顔を覗き込んだ。

 「どうかしたか?」
 「……ううん……兄さんを、思い出した……だけ」

 途切れ途切れのジョニィの言葉から空気を読んでか、男はそれ以上話を掘り下げようとはしなかった。

 「ありがとう。食事まで御馳走になって。……僕はジョナサン・ジョースター。ジョニィって呼ばれてる」
 「Prego. どういたしまして。俺はジャイロ・ツェペリ。見ての通り、この店の店長だ」

 ジャイロか、と男の名前を咀嚼するように脳内で唱える。面倒見が良いというか、世話焼きというか。ジョニィが接した限りでは人が良過ぎる、の一言に尽きた。

 食事が終わっても二人の会話は自然と続いていた。十数時間感じていた疎外感を、数年間感じていた孤独感を埋めるようにジョニィは言葉を紡いだし、ジャイロもワインを片手にジョニィの言葉の一つ一つに相槌を打つ。最初こそ、接客業の為せる業かと思ってジャイロに気を使ってもみたのだが、何度も話の続きを促されると、そんな考えもなくなるというものだ。
 ジョニィは今までにない充足感に、胸の辺りが温まるのを感じていた。騎手として、有名人としての自分ではなく、ただ一人の人間として自分と対等な位置で接してくれる人物など、誰一人としていなかったのだから。
 出会って間も無いというのに、当初の杞憂は何処に置いて来たのだろうか。本来は警戒心が強く疑心暗鬼なジョニィが、この数時間ですっかりジャイロに心を開いていた。

 「__にしてもよぉ……言葉も知らねえってのに、よく一人でイタリアまで来ようと思ったな」
 「あ、いや……ほら、イタリアは、その、色々あるだろ?」

 __ナポリを見てから死ね__。

 まさか本当の理由など話せる訳もなく、口が縺れる。
 フと、目の前に現実を突き付けられた気がした。ジャイロは、イタリア人で、勿論この店にも、家にも、居場所がある。帰るべき場所がある。しかし、自分はどうだ、とジョニィは目を伏せ、ゆっくりと何度か瞬きをした。ジョニィは、アメリカ人で、ここにも、この国にも居場所はない。だからといってアメリカに帰国しても、帰るべき場所など、どこにもない。
 無為に居場所を探しても、無い物強請りに過ぎない事が解らないほど、ジョニィは子供ではない。そして、自分の居場所を作り上げられるほど、ジョニィは大人でもない。誰かからの庇護を求めている訳でもない。ただ、現在過去進行形で感じ続けている空洞を埋める為の行為が、今、全く見当たらなくて、まるで__。

 「迷子、みたいだな……」

 ポツリ、と漏らした言葉が、ジャイロに届いたのかは解らない。
 漠然と、巨大な迷宮の奥底に閉じ込められたような気分がジョニィに圧し掛かる。
 幼い頃は兄を追い掛けていれば良かった。数年前はレースに勝ち続ければ良かった。今は、今は何をどうしたら良いか、全く解らない。それよりも、今は疲労が色濃かった。
 数時間のフライト、銀行でのやり取り、凍えるような寒さの中で数時間歩き回った事、慣れない異国のストレス、そして埋まる事のない穴を開けたままの心。もう、何もしたくなかった。安心して、安堵して、安息を取りたかった。
 幸せになりたかった。

 「……ジャイロ、僕__」

 そのままジョニィの意識は、キャンドルライトのように宙に浮かんだ。







2013-02-02