手繰り寄せる不確かな歪




 別に、大層な理由が有った訳じゃない。

 両親は厳しかったが、実に平々凡々な人生だった。
 家柄は恵まれていて、自慢の兄は誰よりも優秀な騎手で、それこそ家族の期待を一身に背負っていたほどだ。弟の僕だからこそ、それは良く解る。兄に追いつこうと、近付こうと必死になって努力した僕は、いつの間にか数々の乗馬大会で優勝する事も出来るようになり、そんな矢先に悲劇は起こった。
 ニコラス・ジョースター、自宅の厩にて首吊り自殺。
 あまりの出来事に家族は悲嘆に暮れ、一流騎手の兄の自殺という事態にマスコミも食い付いくしかない。そこからの数ヶ月、僕の生活はこれでもかと言うほど悲惨なものだ。
 父親には無い者として扱われ、母親は必要最低限度しか僕に関わらなくなり、そんな僕自身は兄の死を受け入れる事が出来ず、レースに出る事も愛馬に乗る事もなくなった。街で遊びに耽り、女で自身を慰めても虚しさは依然として僕を苦しめる。逃げ場も遣り場もない情動をどうする事も出来ず、僕は無為に過ごすしかなかった。
 あれ以来、家族の誰もが入る事の無かった兄の部屋。ある日、何を思ってか兄の部屋に入った僕は、無意識に兄の机の前に腰掛けた。使い古した木の香りに混ざって、鼻腔に入ってくる兄の名残が枯れていた筈の僕の涙腺を緩める。
 ふと、机の抽斗から紙切れのような物がはみ出ている事に気付いた僕は、徐に抽斗を開いた。中にあったのは手紙と、僕の写真。僕の、僕の顔が、黒いペンで塗り潰されている。

 「ジョナサン、お前さえいなければ……」

 手紙に書かれていた内容と、背後の声が重なった。いつの間にか開いていた部屋の扉の外にいた父親が僕を見て、もう一度、こう言った。

 「何故、産まれてきた、ジョナサン」

 それからの事は、よく覚えていない。ただ、馬鹿みたいにあった自分の貯金を全て下ろし、必要最低限の荷物を持って家を飛び出した事だけは確かだ。
 適当なホテルに入り、ベッドに潜って、訳も解らぬまま懺悔の言葉を呟き続けた。どれだけそうしていたかは解らない。舌の動きが鈍くなり、喉から血の味が漂い始めた頃、謝ろう、と思った。誰でもない、僕の兄に。会いに行こう、と思った。
 携帯で時間を確認すると、家を飛び出してから既に五日ほど経っている事に気付く。何も口にしていなかった僕の身体は、自分でも解るほどの死臭がしていた。今なら、容易い。
 そう思ってベッドから立ち上がった。立ち上がろうとした、が正しいかもしれない。上半身だけを上げた状態のまま、僕の身体はそれ以上動こうとしなかった。

 それが二年前の話だ。






 「ナポリを見てから死ね」

 別に、大層な理由が有った訳じゃない。いっそ、諺通りの行動をするのも良いだろうと思っただけだ。いっそ、テンプレートに嵌り過ぎていて三面記事にもならないだろうが。
 あれだけ騒ぎ立てていたマスコミや取り巻きも、今は僅かばかりの競馬界関係者を残していなくなっていた。時代の流れ、というよりは単に目新しくなくなっただけだろう。いくら悲劇の渦中にあるとは言え、成功の道から外れた人間は誰も興味がない。
 馬鹿みたいにあった金も、足が動かなくなってからは使う用途もなかったので、渡航費用は十二分過ぎるものだった。

 ジョナサン・ジョースター、ナポリに降り立つ。

 車椅子での一人海外旅行なんて、狂気の沙汰にしか思えないかもしれないだろうが、元より帰る気もないジョナサン__ジョニィにとっては関係の無い事だ。行きさえ保てば後は良い。と思っていたが、折角の初海外を何もせずに、というのも些か勿体無い気がしない訳でもないので、暫くは観光を楽しむ事にした。
 陽気なナポリとは言え、初冬の寒さは指先に沁みる。それもこの身には丁度良いと、ジョニィは僅かばかりの嘲笑を零した。

 しかし、やはりと言うべきか。ジョニィの考えは甘過ぎたようで。

 早々にアメリカドルが使えない事が解ったのだが、生憎と持っている現金は全てアメリカドルだったので、それを換金する為に銀行へ行ったのは良い。しかし、そこはお国柄、というものなのだろうか。額が額なので仕方ないと思ったが、換金だけだというのにかなりの時間が掛かってしまい、銀行を出た時には季節も相まってか、既に日が傾きかけていた。
 着替えを入れたリュックは小さいので、車椅子でも全く気にならない程度のものだったが、何よりも現金が重かった。肩掛け用のメッセンジャーバッグ二つにパンパンに詰め込まれたそれは、傍から見れば登山用やスポーツ用の何かに見えるかも知れない。誰もその中に150万ユーロもの大金が納められているとは思わないだろう。

 お金は手に入った。しかし、まだジョニィにとって大きな問題がある。
 簡単な事だ。ジョニィは生粋のアメリカ人で、英語しか話せない。しかしここはイタリアで、当然周りの人々はイタリア語しか話さない訳であって。
 考えなしと嘲笑されても仕方ない事だが、それもこれも若さ故で片付けられる程度にジョニィはまだ子供だった。十九という歳は、大人でも子供でもない中途半端なものであり、それがジョニィの偏った考え方に著しく影響を与えていると言っても過言ではないだろう。

 そもそも、この歳で早まった行動を取る事は良くある事なのだが、ジョニィに関しては環境が良くなかった。相談出来る恋人も、友も、家族もおらず、ましてやジョニィが自ら悩みを告白する事はなく、不平不満は蓄積されるばかり。
 せめて誰かが紐解けたなら、ここまで追い詰められる事もなかっただろうが、今はもう全て過ぎ去った事も同然だった。

 「……寒いな、ここも」

 言葉が通じない、それに加えて車椅子というハンデだ。別段疲れたという訳ではないのだが、これ以上辺りをうろつく気分には、とてもじゃないがなれなかった。
 吐く息は白く、手は悴んでこれ以上は動かすのは流石に無理そうだったので、大人しく通りに面した店の壁に車椅子を停めた。
 銀行から出て暫く街を見回ってみたが、どこに行くでもなく日はとうの昔に暮れてしまっていた。ふわり、と視界に入った雪がジョニィの思考を落としていく。
 情けない話ではあるが、このままこの寒さの中で眠ってしまえば、いっそ綺麗に死ねるかもしれない。死体の中で一番綺麗なものは凍死体だと、誰かが言っていたような気がする。
 目を閉じれば、兄の元へ行けるだろうか。そしたら、謝って、謝ってそれから__。



 「Ciao. Come stai?」

 突如降ってきた言葉に思考が止まる。
 声のした方を振り向けば、車椅子を停めていた店の扉が開き、中から一人の男がジョニィを不思議そうに窺っていた。くすんだプラチナブロンドの長髪を一つまとめにして、黒いシャツと黒いサロンを身にまとった男は、どこか懐かしい雰囲気を纏っていて、これが昔のジョニィだったら積極的に声をかけるほど同性としても魅力的なものを感じる。
 だが、生憎と何を言っているかまでは解らない。

 「ごめん、商売の邪魔だよね」

 店先にホームレス同然の外国人なんて営業妨害も甚だしいだろう。一言だけ謝り、悴んだ手で主輪のハンドリムを掴んだ。どこに行こうか、行く宛てもないけれど。
 しかし、ジョニィが手を動かすより早く車椅子が動いた。

 「おたく〜、取り敢えず中入ろうぜ。金は要らねえからよ〜」

 声は確かに先程の男の声と同じだったが、流暢な英語だ。それ以上に、勝手に動く車椅子に動揺を隠せない。足が動かなくなってから乗り始めた車椅子だったが、誰かに押される事なんて初めての経験だった。自然とジョニィの身体が強張る。
 その異常なほどの緊張を感じ取ったらしく、男も少しばかりうろたえた。

 「あれ……もしかして押されんの嫌だったか?」

 男の翡翠のような瞳がジョニィを覗き込んでくる。
 思わず引き込まれそうになったが、そう感じたのも、ここまで人と接近したのが久し振りだからという事にして、ジョニィは寒さで上手く動かない口を動かした。

 「ごめん、人に押されたの初めて、なんだ……」
 「何だ、そっか。じゃあ一番目は俺がいただきだぜ〜。ニョホホホ」

 見た目より随分と親しみ易い人種らしい。よく通るテノールに似合わない特徴的な笑い方も、男の魅力の一つだろうか。一々、気を引く言動をする男だ。
 ここ数年の間、人とまともな関わり方をしていなかったジョニィからしてみると、男の対応は酷く心温まるもので、じわり、と胸が熱くなるような感じさえした。

 手慣れた車椅子の扱いや、温かい屋内に導いてくれた事。それ以上に、声を掛けてくれた事が、ジョニィにとっては何よりも嬉しかった。







2012-12-01